岩崎弥太郎の生い立ちからお墓まで!!日本一の巨大財閥を築いた土佐の巨人の大言壮語と臥薪嘗胆

人物ネタ

19世紀、日本は大きな転換期を迎えていました。外からの圧力と内部の動揺が相まって、幕末から明治へと移り変わるこの時代は、多くの英雄や革命家を生み出しました。その中に、岩崎弥太郎という人物がいます。彼は土佐の地下浪人から立ち上がり、三菱財閥の基礎を築いた人物です。しかし、彼の成功物語は単なる富の蓄積にとどまりません。岩崎弥太郎の人生は、幕末の動乱の中で形成された強い信念と、新しい時代を切り開こうとする果敢な挑戦の連続でした。この記事では、岩崎弥太郎の生涯を通じて見えてくる、日本が世界に誇るべき精神的遺産と、その遺した経済的な軌跡について探ります。

| 時代背景

19世紀、江戸幕府の支配体制は綻びが見え始めます。内紛・内乱や民衆運動である打ちこわしが盛んになると同時に、外国船が来航し、欧米列強の経済的・軍事的拡大政策に飲み込まれつつありました。幕府の政治は天皇から委任されたものと考える見方が主流化し、国学者や水戸学を中心に尊皇思想が広まっていました。また、外国勢力を排斥して幕藩体制を維持しようとする攘夷思想も現れていました。

しかし、江戸幕府は開国・通商路線を選択したため、尊皇思想は攘夷思想と結びついていきます。そして、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊皇攘夷運動として、武士階層を中心に広く普及していくことになります。250年以上続いた徳川政権が終わりを迎えようとする、まさに時代の激動期に、岩崎弥太郎は生きていたと言えるでしょう

| 岩崎弥太郎の生い立ち

岩崎弥太郎は、岩崎弥次郎と美和の長男として、土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれました。岩崎家はもともと安芸郡の侍として、長曾我部元親に仕えていました。しかし、関ヶ原の合戦での敗北や、岩崎家の先祖が酒と博打で家を傾かせた影響で、弥太郎が生まれた頃には岩崎家は地下浪人の地位に転落していました。

実は、困窮の一因は弥太郎の父・弥次郎のせいでもあり、農業がへたくそなうえに、酒飲みだったことにありました。弥次郎は、借金をしては田畑を手放しており、その性格は頑固で、酒を飲んでは相手をひどく罵倒することもしばしばでした。そんな性格から庄屋の島田氏や岩崎家の分家とのいざこざは絶えませんでした。弥太郎の人格にも、そんな弥次郎の気質を大いに受け継いでいる部分があったことは、後のエピソードで明らかになってきます。 地下浪人は「士農工商」における「士」の最下位身分で、苗字帯刀は許されていましたが、「士」と「農」の中間の位置づけでした。

| 三菱財閥とは?

三菱は、海運会社として創業した後、造船など重厚長大産業の多角化の成功しました。そして、三井・住友といった老舗財閥系グループを抜き去り、日本随一のグループにのし上がったのです。

三菱グループの頂点に君臨するのが「銀行、重工、商事」の御三家です。事実上の最高意思決定機関の役割を果たす「世話人会」があります。そして、グループの主要27社の会長、社長で構成される「金曜会」と続きます。御三家を中心として「鉄の結束」を誇る企業集団の求心力を現在に至るまで維持しています

| 岩崎弥太郎少年

少年時代の弥太郎は、いたずら好きのガキ大将でした。かぼちゃの中に蝋燭を立てて鬼火に見せかけて村人を驚かせたり、狸が住んでいるとおぼしき木の根元の穴に藁をつめ火をつけて、山火事を起こしかけたりしました。そんな弥太郎少年に対して、村人は「手のつけられん腕白だ」「将来ろくなもんにならんぜよ」と噂し合っていました。弥太郎は、暴れん坊でいたずら者ではあっても、人のために助力をおしまない優しい心を持った少年でした。剛と柔、勇気とやさしさ、荒さとち密さを合わせもっだスケールの大きさが、後年の豪商をつくりあげることになるのです。

| 岩崎弥太郎少年のエピソード

「弥太郎大変じゃ、おまんの家の林で木を盗んでるものがおるぞ」と、腕白仲間が息をきって弥太郎に知らせに来た時のこと。弥太郎は、「どこのどいつだその盗っとは、俺が捕まえてやるぜよ」と言って弥太郎は林に向かって走りだしていました。弥太郎が手ごろな棒をひろって握りしめて忍び寄ると、なんと木を盗んでいたのは貧しそうな老婆だったのです。それを見た弥太郎は、「そんな小枝では、炊き付けにしかならんぜよ」と言い、頭上の木の枝に両手でぶら下がると、体の重みで太い枝を折りました。

「薪にするには、これくらいの太さがないといかんぜよ、僕が運んでやるきに」そう言って弥太郎は、うず高くつんだ薪を、肩に背負いました。「すまんのう」申し訳なさそうに、老婆が何度も頭を下げました。「僕は力持ちじゃきに」、弥太郎は無理に笑ってみせましたが、実は肩の骨が折れるのではないかと思えるほどの重さだったのです。弥太郎は、(無理をしすぎたかな)そうは思っても決して弱音は吐かない気質を持っていました。一度決めて歩き出した道は、どこまでも突っ走るのが弥太郎のいいところでした。歯をくいしばって、とうとう老婆の家まで薪を運んでやったのです。

一方で、学業のほうはてんでダメで、あまりの物覚えの悪さに、師匠からも愛想をつかされた塾を度々変えたほどだったと言います。しかし、12歳の時に漢詩の出来を師匠に評価されたことで、詩作に熱中するようになります。また、14歳の時に藩主の山之内豊熈が安芸郡に巡察に来た時、漢詩を作って師匠と共に献上します。

その漢詩を見た藩主から直々に褒められたことで、弥太郎はますます向学心に燃えるようになります。そして、15歳春に高知城下の岡本寧浦の塾に入り、その屋敷に寄宿するようになったのです。この頃から弥太郎は『三国志』や『水滸伝』などの歴史書を読み漁っては、「将来自分は、世の中に名をなすだろう」と公言するようになりました。

歴史の授業中には塾生たちを前に、「もしも俺が宰相だったら、こんな愚策で国を滅ぼすことはしないだろう」と言いいました。それを聞いた塾生がお前はいった将来何様になるつもりなんだと尋ねると、平然とこう答えたそうです。「治世の能吏(事務処理にすぐれた才能を示す役人)、乱世の姦雄(悪知恵にたけた英雄)になるのが自分の夢だ」

また、弥太郎は、字がものすごく下手でした。それを塾生にからかわれた際にはこう言い放ちました。「別に構わない。俺は出世したら能筆家を雇うし、算盤上手も雇うだろう。だから字など下手でもよいのだ。諸芸に秀でようとして、枝葉末節の技術に時間をかけるのは無能者がやることだ」

弥太郎は大言壮語を吐くだけではありませんでした。昼間はゆうゆうと遊んでいましたが、夜が更けると人知れず、あんどんの明かりの下で必死に机に向かっていたのです。

| しくじりを乗り越える

岩崎家の分家の馬之助は弥太郎と同じ岡本寧浦の塾生であり、非常に優秀であり、弥太郎とはよきライバルでした。その頃、馬之助は江戸に留学しており、負けず嫌いの弥太郎は自分も江戸に留学したいという気持ちが抑えられなくなっていきます。

弥太郎は、両親にも相談をしますが、長男である弥太郎の留学など認められることはありませんでした。それでも弥太郎はあきらめず、知り合いの儒学者である奥宮慥斎が江戸詰めとなる話を聞くなり、その屋敷を訪ねました。そこで、己の志を奥宮に告げ、何としても一行に加えていただきたいと哀願したのです。この熱い気持ちに動かされた奥宮は、遂に弥太郎の同行を認めるまでに至ります。

ところが、念願の遊学からまだ1年も経たないうちに突然郷里の母親から驚くべき知らせを受け、土佐へ戻らなくてはいけなくなりました。その知らせとは「弥次郎(弥太郎の父)が庄屋の島田から暴行を受けて、立ち上がれなくなってしまいました早く帰ってきてください」というものでした。

事実を知った弥太郎は、師匠に事情を話すや、すぐさま江戸を後にします。その足の速さは尋常ではありませんでした。当時江戸から京都までいくのに、徒歩だと最低半月はかかったのですが、それよりさらに遠方の土佐までたったの16日間で駆け抜けたのです。いかに弥太郎が家族に対する思いやりの心を持っていたか、そして、激しやすく執念深い性格であったかが分かる思います。

土佐に帰りつくと、さっそく弥太郎は庄屋の島田を問いつめます。しかし、島田は知らぬ存ぜぬを通したため、ついに安芸郡の奉行所に訴え出ることにしました。ところが、みな口裏を合わせて取り付く島もありません。また、奉行所は島田から賄賂も受け取っていたということを聞き、弥太郎の怒りはピークに達します。そして、なんと奉行所の壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して立ち去ったのです。しかし、奉行所はこれを黙認し、落書きをきれいに消してしまいました。すると弥太郎は、一度消された白壁に、またも落書きをします。尋常ではないしつこさと執念を持った人物であったことが、このエピソードからも分かるでしょう。

二度目となると、さすがの奉行所もこれを看過することができず、弥太郎は牢屋に入れられてしまいます。実は、この入牢がきっかけとなり、弥太郎は藩の経済官僚、そして政商へと上り詰めていくことになるのです。同牢の囚人に樵がおり、弥太郎はこの人から算盤や商売のやり方を学びました。これに感激した弥太郎は、「俺が志を得て出世したなら、あんたにたくさんの金を与えると約束する」と言い放ったと言われています(結局は樵を探し当てることができずに実現できませんでした)。弥太郎が白壁に落書きをしなければ、この樵に会うこともなく、商売に関心を抱かなかった可能性が高いことを考えると人生は不思議なものです。

| 弥太郎役人となる

実は、その後1年半に及ぶ訴訟の間に弥太郎は財産をほとんど使い切り、田地も失ってしまいました。家計も火の車で、再び江戸に留学することもできないという、絶望的な状況に陥ってしまいますそんな状況下でも、弥太郎は決して自暴自棄にはなりませんでした私塾を開き、子どもたちに漢学を教え始めたのです。

塾には、後に坂本龍馬と共に亀山車中の一員として活躍する、近藤長次郎などもいました。この頃、参政として藩政改革を断行していた吉田東洋が酒宴での狼狽により蟄居処分となっていました。東洋は蟄居先で少林塾を開設していて、甥の後藤象二郎や福岡孝弟などを集めて教育にあたっていました。

ここで、弥太郎は吉田東洋と面識を得るようになり、その才能を売り込んでいったと思われますやがて、吉田東洋は赦免されて、参政に復帰します。そして、後藤象二郎ら少林塾の門下生を抜擢していくようになるのです。弥太郎も、郷回という農村を巡察する下級役人の役職を得ることができ、郷回になってすぐ上士と共に長崎へ赴きました

地下浪人の身分であった弥太郎が、その後の栄達のきっかけを手にした瞬間でもありました。弥太郎25歳の時でした。参政に復帰した吉田東洋は、土佐の国産品を長崎で販売しようと計画していました。そして、どんな品が輸出に適しているかの情報収集をさせるために弥太郎を長崎に派遣したのです。弥太郎は、長崎で漢学者・西洋砲術家とも面識を持ちました。また、何度も断られながらも、日々清国やオランダ・英国の商人などと積極的に面会を申し込んでいきましたこの時の人脈が、後に豪商となり、一大財閥の基礎を築いていくのに大いに役に立ったと言われています

ところが、長崎に赴いて半年も経たないうちに、弥太郎は土佐に帰ってくることになります。遊郭の女に入れ込んだあげく、藩から支給されていた公金を使い込んでしまったのです。とにかくお詫びをするために土佐に帰ろうと思ったのですが、料亭には借金があるし、旅費もありません。1ヵ月の間、弥太郎は金策に走り回りました。金が都合できるとすぐに長崎を発ったのですが、藩庁には弥太郎に対する怒りの声が多くあがりました。

弥太郎の才能を認めていた吉田東洋も弥太郎をかばいきれずに、弥太郎は免職になってしまったのです。こうして、やっとつかんだ出世の糸を、誘惑に負けて自らの手で切ってしまいました。その後は反省もあってか、しばらく生家の田畑を耕して生活し、やがて妻の喜勢と結婚します。しかし、心の内では、まだ吉田東洋の元で栄達する道をあきらめてはいませんでした。しかし、そんな矢先に、土佐勤王党によって吉田東洋様が暗殺されてしまったのです。

| 引きこもり期間の始まり

吉田東洋の死後、藩の中枢にいた東洋の門下生たちは次々と失脚し、保守派と尊皇攘夷派に権力が集まっていきました。ただ、どういう訳か、後藤象二郎と弥太郎は排斥されることはありませんでした。そして、弥太郎は東洋を暗殺した犯人を捜す任務を与えられます。東洋を殺した犯人を捜す任務の途中、「大阪までは各自自由に行動してよい」という布達が出たという噂が広まります。もともと犯人捜しに前向きでなかった弥太郎は、それを鵜呑みにして隊列を離れました。しかし、噂は誤報であり、これが監察に知られて弥太郎は再び役職を免職になってしまいます(隊列にいた仲間が土佐勤王党によって殺害されていることを考えると幸運だっとも言えます)。

その後、藩政は反東洋一色となり、弥太郎の栄達の望みが絶えました。その後はしばらく、弥太郎は井ノ口村に引きこもるようになります。ただ引きこもっていた訳ではなく、荒地の開拓と畑地の開拓、綿栽培と薪炭を作って商人に卸す計画を立て、丸3年とにかく働いていたのです。その間に、長女の春路、長男の久弥が生まれ、その頃には、弟の弥之助も14歳になっていました。弟の弥之助は三菱財閥の二代目当主、長男の久弥は三菱財閥の三代目当主となり、この二人が弥太郎の死後苦境に陥っていた三菱をさらに発展させていくことになるのです。

その頃、土佐の政権事情がまた大きく変わります。京都を牛耳っていた長州系志士が会津・薩摩らの公武合体派に駆逐される八月十八日の政変が起こります。駆逐された志士たちは翌年、京都に火を放って孝明天皇を拉致し、公武合体派諸侯を殺害しようと企みました。しかし、新選組によって屯集していた池田屋を襲撃されて一網打尽になってしまいます(池田屋事件)。これを知って激怒した長州藩士は大挙して京都になだれ込み、薩摩・会津藩と衝突しました。結果、長州藩は大敗しました。

また、四国艦隊(英・米・蘭・仏)に下関を攻撃されるなどのダメージを追っていたこともあり、ここにおいて長州藩は攘夷の不可を悟ります。一方の土佐では、土佐勤王党の武市半平太が失脚して、後藤象二郎を中心とする改革派が再び実権を握るようになっていました。そして弥太郎は、後藤象二郎から三郡奉行の下役として藩から正式に召し出されることになります。その後、開成館貨幣局へ移動し、長崎にある貨幣局の出張所(土佐商会)に勤務することを命じられました。

ここが弥太郎にとって、人生最大の転機だったと言えるかもしれません。なぜならば、この土佐商会の財産を引き継いで三菱商会を創設することになっていくからです。土佐商会ではドイツや英国の商人から大量の銃器や蒸気船を購入していました。ところが、土佐の物産としては売るものがほとんどなく、借金は積りに積もる有様でした。算盤や商売のやり方に精通していた弥太郎は、長崎にきてわずか3ヵ月で土佐商会の主任者に抜擢されます。

| 坂本龍馬との出会いと確執

ちょうどその頃、坂本龍馬は幕府の神戸海軍操練所で軍艦の操縦術を習っていました。ところが、池田屋事件に関わった訓練生が出たために、操練所が廃止されてしまったのです。そして、操練所の仲間と共に薩摩藩の支援を受けて長崎の亀山で亀山社中という称する組織を創設していたところでした。

後藤象二郎は、幕府寄りの姿勢を貫いて来ていましたが、万が一幕府が倒れた時のことも考えていました。だからこそ、討幕派の薩摩・長州とも親交を結びたいと思っていたのです。そして、土佐の脱藩浪士であった坂本龍馬という男が薩長同盟を仲介したことを聞き、龍馬と接触を図ろうとします

その頃、龍馬が率いる亀山社中は、持ち船が沈没したり、借用中の船を返還しなければならない状況が重なっていました。50名を超える社員の給料も滞るくらい経営が非常に厳しくなっていました。龍馬と接触を持ちたいと画策する藩に対して、資金繰りに苦難する龍馬もまた、藩と提携することで資金を供与してもらうことを考えていたのです。そうして、後藤と龍馬の会見が行われました(清風亭会談)。ここで、亀山車中は海援隊と改称し、土佐藩に属することに決定しました。

ただし、それは公にはせず、給与は土佐商会から払う取り決めとなります。こうして、支払いの滞った隊士への給料も土佐商会が面倒を見ることになり、弥太郎がすべての尻拭いをするようになっていきます弥太郎と龍馬は共に仲良く酒を酌み交わしたという日記が残っています。その一方で弥太郎は、平然と金を無心にやってくる龍馬とそれ以上やる必要はないと言う後藤との板挟みに苦しめられていました。土佐商会の財務状況は依然として厳しく、弥太郎は自腹を切って龍馬や海援隊隊士の給料を払ったこともあったのです。

そんな中、藩の重役達から、艦船や大量の武器・弾薬の購入せよという催促が次から次へと弥太郎の元にやってきていました。その要求に応えるために弥太郎は、接待費を湯水のごとく使って外国商人や長崎奉行所の役人たちを取り込んでいきました。弥太郎は毎日のように酒を飲み、身を削っては、相手との距離を縮めて関係性を築いていきました。ある外国商館は「土佐藩を相手にするのではなく、岩崎弥太郎個人の信用をもって取引を行う」という文言を契約書に記載したほど、その信頼は厚いものだったのです。

しかし、土佐にはほとんど物産がなかったため、月賦を滞らせて代金を大幅に値切ったり、かなり際どい取引の連続でした。弥太郎としては、藩命ゆえにしょうがなかったというのが本音ではありましたが、したたかかつ強引に取引を行えるあたりは弥太郎の商才と胆力を伺い知ることができます弥太郎は、海援隊関連のいろは丸沈没事件や、英国水兵の斬殺事件などで散々苦労をかけられました。やがて、弥太郎と海援隊はお互いに非難し合うようになり、関係はどんどん悪化していきます。

| 三菱商会の誕生

三菱商会の重役

後藤象二郎はこの頃、大政奉還の実現に向けて忙しく動き回っていて、長崎に来る暇すらありませんでした。それに代わって長崎に来た土佐の重臣が佐々木三四郎という男でした。佐々木は熱烈な討幕派であり、土佐商会の経営を第一に考えていた弥太郎とは、頻繁に対立するようになります

ところが、弥太郎が土佐に召喚されることになったとき、佐々木は後藤宛に弥太郎を残留させるように嘆願書を送っていたと言います。なぜそのような嘆願書を送ったかというと、弥太郎がいなくては土佐商会の経営が立ち行かなくなっていたからでしたその後、後藤は大政奉還を成し遂げた功績をもとに一気に家格があがり、土佐藩の執政の座につきます。

【大政奉還とは】
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許したことを大政奉還といいます。そのきっかけとなったのは、後藤象二郎が、坂本龍馬が大政奉還を含めた新しい政府のアイデアをまとめた「船中八策」に共感し、土佐藩主山内容堂に大政奉還を進言しましたことが始まりでした。

後藤が藩の政権を掌握したことで、土佐商会を縮小するという話は立ち消えとなり、弥太郎は土佐商会の主任に再任されました。そして、その後、開誠館大阪出張所である大阪商会へ配属され、弥太郎は少参事(土佐の重臣)の地位を得ることができたのです。地下浪人の身分であった岩崎家が、土佐の重臣まで昇りつめたのですから、大出世と言えます。

大阪商会では他藩の貿易代行、海運業にも手を広げ、業績を急激に伸ばしていきました。しかし、明治新政府は「各藩の商業活動は民間会社の育成を阻むため、これからは蔵屋敷等は廃止」するという通達を出しました土佐藩としては苦肉の策として、土佐商会を藩会計から分離して、九十九商会と名乗らせて私商社のように見せかけました

その後、廃藩置県が断行され、土佐藩は解体してしまうことになりました。しかし、九十九商会は解散せずに「三川」と名を変えて商業活動を続けました。なぜ三川と名を変えたかたというと、土佐藩の解体によって少参事の地位を失ってしまった弥太郎が、新政府へ出仕する意欲を再燃させ九十九商会の経営から一時的に退いていたからです。

その間は、商会の経営を川田小一郎、石川七財、中川亀之の3名に任せていたことから、彼らの川という苗字を合わせて「三川」となったのです。しかし、新政府への出仕の画策は失敗に終わり、そこから弥太郎は政治家になるという夢をあきらめて経営者として生きていく覚悟を決めました。弥太郎の復帰と共に、三川商会の名称を変更して、ここに完全なる私商社である「三菱商会」が誕生したのです

| 岩崎弥太郎の商才

弥太郎は、三菱商会の社員に対して「俺は国内の汽船会社に競り勝ち、外国汽船を追い払い、やがては世界に進出してたくさんの海外航路を開いて、世界中の港に日の丸がはためくようにしてみせると常に語っていました。大言壮語を吐き、誰もが仰天するような大風呂敷を広げることは幼少期から変わらなかったのです。しかも大言壮語を吐くだけでなく、当人はそれを本気で実現しようと思い、誰よりも努力をするのが岩崎弥太郎という男でした。

そして、三菱の社員は弥太郎の夢に向かってよく働きました。また、外国商人の弥太郎に対する信頼は絶大で、その人脈を利用して、彼らから資金を調達します。の資金を元手に三菱の海運事業は大きな利益を上げていくことになるのです。

そんな中、1872年に政府は外国の汽船会社に打ち勝つために、三井、鴻池、島田といった政商たちにはかって、日本国郵便蒸汽船会社を創設させました。この会社ができた頃は、三菱商会は到底それに太刀打ちできるだけの力を持っていませんでした。しかし、それからたった1年で、この巨大海運会社と肩を並べるほどに三菱商会は急成長を遂げることになるのです。

この急速な成長の背景には、徹底したサービス戦略がありました。社員には旧藩士が多く、支配階級としての立ち振る舞いが抜けきらない者が多くいました。この姿勢を改めさせるために、社員に前垂れの着用を命じ、顧客に頭を下げることを徹底したのです。どうしても顧客に頭を下げることができない社員には、「客に頭を下げなくてはんらなくなったときには、俺があげた小判が書かれた扇子を開け」と言いました。つまり、客に頭を下げるのではない、小判に頭を下げると思えばいいのだと言って戒めたのです。

一方、日本国郵便蒸汽船会社のほうは、半官半民であったため、その地位にあぐらをかき、客への接し方も極めて横柄でした。両社は、激しい競争を繰り広げます。その競争の結果、問屋や荷主たちは、サービス精神に優れた三菱商会のほうにだんだんと注文をするようになっていきました。日に日に力を増していった三菱商会は、たった1年で日本国郵便蒸汽船会社と肩を並べるようになったのです。

台湾出兵時の日本人兵士

そんな折、台湾に漂着した琉球漁民54人が台湾の住人に殺害される事件が起きます。明治政府は損害賠償を求めましたが、清国はそれを拒絶し、明治政府は外交交渉をあきらめて台湾への出兵を決めます。列強諸国は中立の立場を宣言し、日本で営業している外国の汽船会社からは輸送を拒否されてしまいます

そこで、政府は日本国郵便蒸汽船会社に輸送を命じますが、この依頼に対して、同社の頭取であった岩橋万蔵が難色を示します。いま台湾への兵糧輸送を引き受ければ、国内における海運契約はみんな三菱に持っていかれてしまうと危惧したのです。また、もしこの依頼を拒絶すれば、政府は間違いなく三菱商会に仕事を依頼するはずだと考えます。まんまと三菱が輸送を請け負えば、国内シェアを三菱から取り戻せるかもしれないという算段があったのです。

案の定、政府は三菱にこの仕事を依頼しました。弥太郎はこの依頼に対して、次のように回答します。「光栄これより大なるはなし。敢えて力を尽して政府の重荷に耐えざらんや」なんと、この仕事の依頼を喜んで引き受けたのです。岩橋の考えとは正反対に弥太郎は、この仕事を三菱にとっての千載一遇の好機とみなしたのです。

弥太郎の言葉に次のような言葉を残しています。「およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである」弥太郎は、困っている政府に対してまず与えようと考えたのです。弥太郎の先を見通す力と、勝負をかけた決断に、その類まれな商才を見ることができるでしょう。

さて、結果はどうだったのでしょうか。台湾への輸送は、現在の三菱の持ち船だけでは足りないだろうという政府の配慮から、三菱商会は政府が購入した金川丸や東京丸など三隻を貸与されましたその後も次々と船を貸し与えられ、その数は合わせて10隻にもなりました。しかもこれらの船は台湾出兵後もそのまま委託というかたちで使用することが認められたのです。この結果、三菱商会は日本国郵便蒸汽船会社を凌駕し、海運のシェアも一気に同社を抜き去ることになります。同時に、台湾への往復という海洋航海の経験は、三菱の社員たちの航海技術を一挙に向上させ、のちの海外航路開拓に大いに役立っていくのです。

こうして政府の保護を受けるようになった弥太郎は、海運の実権を外国の手から取り返そうと、国内に勢力を広げるアメリカのパシフィック・メイル社に挑んでいくことになります。パシフィック・メイル社は、幕末よりサンフランシスコ-上海間に国際航路を開いていました。その後、アメリカ政府の支援を得てながら、横浜、神戸、長崎へと支線を延ばしていたのです。

 一方で、政府は弥太郎に対して、上海航路の開設を命じました。その翌月には、三菱副社長の岩崎弥之助を乗せて無事に上海に到着することになります。ここから三菱商会とパシフィック・メイル社との激闘が始まることになります。両社は激しい値引き合戦を繰り広げ、その結果パシフィック・メイル社は次第に劣勢となり、遂には、政府が仲介に入り、メイル社が上海航路から撤退することを条件に、三菱がメイル社の汽船4隻と諸施設を80万円で購入することで手が打たれました。

この直後に、メイル社の撤退を知ったピー・アンド・オー社(英国の強大な汽船会社)が上海航路を開き、大阪ー東京航路に進出してきたのです。強大な相手との闘いに反対する重役も多くいましたが、弥太郎は自らの給料を半減し、重役の給与も3分の1カットして、徹底抗戦の姿勢を強め、全員の奮起を促しました。給料カット・経費節減に努めながら、さらには吉岡銅山の儲けをすべて競争に注ぎ込んでいきました。

その過程で弥太郎が思いついたのが「荷為替金融」です。それは、船の荷物を担保にして荷主にお金を貸してあげるという斬新なシステムでした。これを知った荷主からは大きな反響があり、ピー・アンド・オー社の大口取引先も三菱に契約を乗り換えるほどのインパクトがあったのです。弥太郎の画期的な発想で、三菱はまたもや窮地を乗り切ったのです。こうして三菱は次々と新たな外国航路を開拓するとともに、国内航路も次々と拡充させていき、全国の主要な港には三菱の船が停泊するようになりました。

また、不平士族の乱や西南戦争においても政府の期待通りに兵士や物資の輸送をこなしながら、莫大な収益を得て、三菱の勢力は全国汽船総トン数の70%以上を占めるほどに拡大していたのです。

大胆な決断をする一方で、弥太郎は、経費を無駄にしたり、会社を私物化するのを絶対に許さず、常に目を光らせていました。弟の弥之助が白紙に領収書を貼り付けているのを見た弥太郎は、「貴様は立派な紙を使っているが、全国の支社が見な白紙を用いて貼ったならば、年間幾らの費用になると思うか。使い古しの紙を用いた場合と幾ら違うか、計算してみよ」と言いました。

常に細心で堅実な経営をしていたことが分かる弥太郎の言葉があります。「樽の上からすくって飲むやつは、たとえ一升飲まれても、三升飲まれてもたいしたことはない。怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ」

弥太郎は、高学歴者にこだわって採用をしていたことは有名です。そんな弥太郎も、当初は一般の若者を社員として採用していたことがありました彼らはみな従順で、言われたことは素直に黙々とやってくれましたが、教養がないものだからよく大失敗をしでかすことがあったのです。

これに対して大卒者は、エリートゆえに高いプライドを持ち、愛想もないが、深い知識がありました。だからこそ、いざというときの談判でも堂々と交渉相手と渡り合うことができたと言います。教養のない者に大卒者の気風を養わせるのはとても難しいですが、反対に、大卒者をしっかり教育して三菱色に染めていくのはたやすいことだと弥太郎は考えたのです。

挿絵『竜馬の夢を育てて三菱をつくった岩崎弥太郎』より

明治11年、政府の最大実力者であった大久保利通が、不平士族によって暗殺されました。その後継者として有力であったのが長州出身の伊藤博文と肥前出身の大隈重信でした。そして、明治14年、北海道開発のための行政機関である開拓使の長官であった黒田清隆が、その事業や施設を、不当に安い金額で同じ薩摩出身の政商五代友厚らへ売却しようとしていることが発覚したのです。

黒田は、その件で激しい非難を浴びており、これを長州の伊藤博文が利用しようと画策します。伊藤博文は、薩摩の黒田に「あたなを攻撃させている黒幕は大隈だ」と吹き込み、大隈と薩摩の協力関係を離反させました。こうして薩摩と長州が合同して大隈を罷免し、その周囲の官僚を追放するクーデター(明治14年の政変)を決行しましたそして、薩長藩閥政府は、陰で大隈に資金提供をしていたのは岩崎弥太郎だと信じ、三菱の勢力を抑制する方針を取るようになるのです。

その流れの中で、政府は新たな汽船会社を創設することになります。この会社は政府の出資に加えて、渋沢栄一、三井物産の益田孝、雨宮敬次郎、大蔵喜八郎などからも資本を募り、共同運輸会社として正式に発足しました。

まさに三菱にとっては存亡の危機でした。政府は三菱の主要な航路にことごとく共同運輸の船を進出させ始めます。ここにして、三菱商会と共同運輸会社の間に、激しく果てしない廉価競争が始まることになったのです。

スピード競争もすさまじく、両社で速力を競い合ったため汽船の煙突は火柱を上げるほどになり、遂に衝突事故を起こすまでに至りました。このすさまじい競争の渦中において、弥太郎は自らの命をすり減らしていきました。弥太郎の胃は、がん細胞に少しずつ蝕まれ続けていたのでした。弥太郎はがんによる胃痛と吐き気に苦しみながらも、共同運輸会社との闘いに決して屈する姿勢を見せませんでした死ぬ間際に至るまで部下に経営状況を報告させ、自ら直接指令を下していたのです。1885年、岩崎弥太郎は51歳で、三菱商会と共同運輸会社の死闘の結末を見届けることなく、その激動の人生に幕を下ろしました。

| 岩崎弥太郎の名言

およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである。

小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ。

自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。ゆえに事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ。

無駄をなくすということは、口に出して言うのは簡単でも、実行するのは難しい。これは昔も今も、人々のひとしく悩みとするところである。余分な人員を整理し、無駄な費用を省き、精魂を尽くして本社の基礎を固め、相手に負けないだけの体制を築いてこそ、はじめてこちらの勝利が期待できる。

小事にあくせくするものは大事ならず。ひとたび着手せし事業は必ず成功を期せ。決して投機的な事業を企てるなかれ。国家的観念を持って全ての事業に当たれ。

一日中、川の底をのぞいていたとて、魚はけっして取れるものではない。たまたま魚がたくさんやってきても、その用意がなければ、素手ではつかめない。魚は招いて来るものでなく、来るときに向かうから勝手にやってくるものである。だから魚を獲ろうと思えば、常平生からちゃんと網の用意をしておかねばならない。人生全ての機会を捕捉するにも同じ事がいえる。

酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。

一たび着手せし事業は必ず成功せしめざるべからず。

部下を優遇するにつとめ、事業上の利益は、なるべく多くを分与すべし。

| 岩崎弥太郎の墓所

かつて岩崎弥太郎の墓は染井霊園に建てられていましたが、現在は染井霊園南東の区立仰高小学校と三菱重工社宅の間の個人敷地に埋葬されています。墓地の関係者に許可を取り参拝したという方や、命日に公開されるという声があるようですが、現在は一般的に公開されていません。

●所在地: 〒170-0003 東京都豊島区駒込5丁目1−19
●アクセス: 都営地下鉄三田線「巣鴨駅」徒歩約10分 、 JR山手線「線駒込駅」徒歩約12分

| 岩崎弥之助の墓所

明治43年3月、わが国西洋建築の始祖ともいうべきジョサイア・コンドルによって建てられた『岩崎家廟堂』は、岩崎弥之助の霊廟として建てられ、岩崎弥之助、その子の小彌太をはじめ岩崎家代々の墓となっています。この霊廟は平成11年4月東京都により歴史的建造物に選定されました。

●所在地: 〒157-0076 東京都世田谷区岡本2丁目23−1

| 関連スポット

旧岩崎邸庭園は1896年(明治29年)に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造てられました。往時は約1万5,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいました。現在は3分の1の敷地となり、現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟です。木造2階建・地下室付きの洋館は、鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドルの設計で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事 なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。

●所在地: 〒110-0008 東京都台東区池之端1丁目3−45
●開園時間: 午前9時~午後5時(入園は午後4時30分まで)
●休園日:年末・年始

開東閣・旧岩崎家高輪別邸は、JR品川駅高輪口下車10分位の高輪の高台にあり、一般公開はしておらず、三菱グループの倶楽部して使用されている周りに鬱蒼と木々を茂らせ外からは建物自体が見えないようにしてあります。

●所在地:〒108-0074 東京都港区高輪4丁目25−33

岩崎別邸と呼んでいるのは、富里市で初の国登録有形文化財になった「旧岩崎家末廣(すえひろ)別邸」の主屋(しゅおく)・東屋(あずまや)・石蔵(いしぐら)の総称です。岩崎別邸は、大正時代末から昭和初期にかけて「末廣(すえひろ)農場」の中に建てられました。この「末廣(すえひろ)農場」は、三菱の3代目の社長で岩崎弥太郎の子である「岩崎久弥(ひさや)」が自ら経営を行った農場です。久弥は、「採算を度外視して、わが国畜産界の発展につながるような、模範的な実験農場を作りなさい。」と農場長に常々語っていたと伝わっています。そのような経営方針から、大型のトラクターなど当時としては最新の技術と設備による先進的な農法によって、日本の農牧事業を先導していました。ある日、農場内の道端に古い草鞋(わらじ)が捨てられているのを見た久弥は、「物にはそれぞれ使命があるのだから、最後までその使命をまっとうさせるようにしなければならない。古い草鞋(わらじ)はたい肥にすれば、まだ十分に役立てることができる。」と、農場員に語ったという人柄を示すエピソードものこされています。残念ながら、第二次世界大戦後に末廣(すえひろ)農場はなくなってしまいましたが、当時を偲(しの)ばせる岩崎別邸は、壊されることなく現在まで大切に保全されていたのです。平成24年、これまで維持管理をしてきた三菱地所株式会社より、末永く大切にして欲しいとの申し出により、富里市に寄附されました。富里市は、寄附後直ちに、歴史的価値が非常に高いことから、国登録文化財への申請を行い、平成25年12月24日に正式に国登録有形文化財となりました。

●所在地:〒286-0221 千葉県富里市七栄650−25
●公開日:毎週日曜日、午前10時から午後4時まで(最終入場受付は午後3時30分)

1878(明治11)年、岩崎弥太郎は社員の慰労や貴賓を招待する場所として、かつての大名の屋敷跡を購入し、広大な庭園(清澄庭園)を造成しました。弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。関東大震災で大きな被害を受けましたが、災害時の避難場所として、多数の人命を救いました。翌1924(大正13)年東京市に寄付。1932(昭和7)年に清澄庭園として開園しました。

●所在地:〒135-0024 東京都江東区清澄3丁目3−9
●開園時間:9時00分~17時00分(入園は16時30分まで)
●休館日:12月29日~1月1日

六義園は、5代将軍綱吉の側用人柳澤吉保の造営した大名庭園であり、造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていました。7年の歳月をかけ「回遊式築山泉水庭園」が完成。平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築いた繊細で温かみのある日本庭園です。明治時代に入り、岩崎弥太郎が所有し、1938(昭和13)年に東京市に寄贈されました。国の特別名勝にも指定されています。

●所在地:〒113-0021 東京都文京区本駒込6丁目16−3
●開園時間:9時00分~17時00分(入園は16時30分まで)
●休館日:12月29日~1月1日

| 参考文献

(著者)河合敦|(書名)岩崎弥太郎と三菱四代|(出版社)幻冬舎|(出版年)2013年