【しくじり先生】日本企業420万社の歩みのすべてが経営の教訓となる

知恵・知識

日本にある420万社の企業の発展と没落には間違いなく多くの学びがあるはずです。この記事では、それら多くの企業を「しくじり先生」として紹介していきます。

サイゼリヤコンパイル鈴木商店三菱財閥CSK

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サイゼリヤ

サイゼリヤの歩み(1号店から多店舗、合理化への道)
  • 1973年

    (1店)イタリアンレストランとしてサイゼリヤの営業を開始してから数カ月後、価格を相場の1/3に変更

  • 1976年

    (2店)だれもが「売れない」という立地に2号店を開店。そこでもお客様が大行列を作る。商品に値打ちがあれば、どんな立地でもお客様が来てくれると確信。出店経費を最大限抑えたサイゼリヤ流出店戦略の考え方の基となる。

  • 1977年

    (3店)から、多店舗化を開始。3号店のバックヤードをセントラルキッチンとして活用し、多店舗化へ乗り出す

  • 1987年

    (18店)初めて150席を超える店舗の営業を開始し、オペレーションの合理化の試行錯誤が始まる。オーダーエントリーシステム(無線で注文を飛ばす)の導入を開始。トレーを持たない、オーダー係と運ぶ係を分けるなど、超繁盛店を切り盛りできるルールが作られていく

  • 1993年

    100店舗を目前にし、ようやくマスメリットを活かし始められる。100店舗の使用量を基に、イタリアのワイナリーに直接赴き、現地で品質を確認して購入契約。商社を使わずに思い通りの品質を入手できることのメリットの大きさを学ぶ。

  • 1994年

    100店舗突破。ワインに続き、主力食材の直接輸入を開始。品質の向上と価格の低減の両方を実現。利益還元としてピザ・リゾットなど50~100円の初の大幅値下げを断行。メリットと同時に在庫確保のリスクや品質異常のリスクなど直輸入の難しさも経験していった。この年より、新卒定期採用を開始する。

  • 1995年
    キッチンのシステム改革

    店舗調理方法をガスオーブンからコンベア型のオーブンへ。だれでも一定の料理が作れ、安全な調理システム導入で、キッチンで女性従業員が働けるように。

  • 1999年

    バーティカルマーチャンダイジングの初めの一歩としての初「カミッサリー」が稼働開始。生鮮加工品の生産拠点、物流拠点として機能する。食品加工メーカーに生産委託していた製品を自社生産できるように。オリジナル製品を生産できるメリットはあるが、生産に関する技術に疎く、当初は様々なトラブルが多発。発売開始から数週間で販売中止になった商品もあった。製造直販業になるための課題が多数あぶり出された。

  • 2000年

    “この年、東証第二部から第一部に指定替え。生産性が低いフードサービス業で他産業並みの生産性を生みだし、従業員が幸せになれる企業を目指す。”

サイゼリヤの創業

【創業者情報】
●氏 名:正垣 泰彦(しょうがき やすひこ)
●生 誕:1946年1月6日兵庫県生まれ
●出身校:東京理科大学理学部物理学科卒業
●職 業:サイゼリヤ代表取締役会長

サイゼリヤ1号店(現在は記念館になっています)

正垣泰彦氏は、ファミリーレストラン大手のサイゼリヤの創業者で、現在は同社代表取締役会長です。

兵庫県の田舎で生まれ育ち、親分肌でみんなが喜んでくれることをするのが好きな少年でした。

高校時代は「超」がつくくらいの問題児で高校を退学処分になりましたが、恩師が守ってくれたことに感激し、その日から勉学に励むようになり東京理科大学に進学するまでになります。

正垣はアルバイトが好きで、学生時代にはいろいろなアルバイトに精を出していました。新宿の大衆食堂でアルバイトをしていた時には、皿洗いを一所懸命頑張って職場の仲間からとても評価されていました。

大学4年になり卒論を書くためにアルバイトを辞めたいと願い出たところ、コックから「おまえ、食べ物屋の素質があるから独立してやってみたらいい」という思わぬ一言を投げかけられました。

その言葉がきっかけとなって、借金をして開業資金を貯め、千葉県市川市にあった10坪程度の「フルーツパーラーサイゼリヤ」を買い取って在学中に開店したのです。

店舗の立地条件は悪く、食品サンプルも放置されたままで、スパゲティいたってはロウが溶けてスープスパゲティにしか見えないという有様でした。

総武線のダニの巣窟?

正垣は、独学で料理や経営を学び、コックに教えてもらいながら自ら厨房に立ちました

立地が悪かったこともあって、お客さんはゼロ

正垣は、駅前で宣伝用の看板を身にまとってサンドイッチマンをやり「うまい料理がありますよ」そう言っては、帰宅前のサラリーマンを捕まえていったのです。

店に着くと看板を脱ぎ、厨房でそのまま料理を作るからお客さんはびっくりです。

開店当初はフルーツパーラーを名乗ってはいましたが、深夜営業やウィスキーのボトルキープまでやっており、どちらかというとレストランというよりスナックでした

店を引き継いで9か月目のある日、店内でのヤクザ同志の喧嘩がもとで店が全焼してしまいます。

翌日の新聞には「総武線のダニの巣窟」と書かれていました。

正垣氏は燃えさかる店を見上げながら内心ホッとしていたと言います。

経営が苦しくて、正垣を慕ってついてきた従業員に給料が出せていなかったからです。

そして、実家に帰って店を辞めたいと愚痴をこぼした正垣氏に対して、母親はこう言いました。

『せっかく火事が起こったのに、やめるなんてもったいない。いいかい、苦労や問題というのは、自分を成長させるために起きているんだから、正面から受け止めなさい。火事で店がなくなるなんて、最高じゃない』

イタリヤ料理店として再出発

給料が出せない分、正垣氏は従業員たちに数学を教えていました

従業員たちは中学を卒業して集団就職で東京に出てきた者ばかりで、正垣氏から高校や大学で学ぶ数学を教えてもらうことに喜びを感じていたのです。

店の大家さんは、そんな若者たちを見て、彼らの夢を閉ざしてはいけないと店舗をまた建て直してくれました。

保証金もなし、家賃も以前のままでまた「サイゼリヤ」は再開することができたのです。

『今度こそちゃんとお客がくる店にしたい。クセになるような料理、一度食べたらやみつきになるような料理はないものか…』

そこで、正垣氏は、食品の中で何が伸びているか調べたところ、味噌とニンニクと唐辛子が伸びていることがわかりました。

そして、世界規模で消費量を伸ばしているのは、トマト、チーズ、スパゲティでした。また、かつてフランス、ドイツ、スイス、イタリアと各地の料理を食べ歩いた時に、イタリア料理だけは毎日食べても嫌にならないくらい自然な食べ物だったと感じていました。

『イタリアの豊かな食文化を日本にも定着させたい』

こうしてサイゼリヤは、イタリア料理店として再出発することになったのです。

大胆な価格戦略に打って出る

正垣氏はメニューを3割引にしましたが、なかなか客足は増えませんでした。そこで、正垣氏はさらなる秘策に打って出ます。

正垣氏はメニューを7割引にしたのです。

午後4時の開店とともに、狭い店内は客であふれるようになりました。普段は10人の客足が600人となったのです。

料理がなくなり7時に店を閉めると、お客さんが下から「開けろ」「開けろ」の大合唱でした。

1時間だけ外で待ってもらい、仕込み直してまた開店するのですが、それもすぐに料理は尽きてしまう有様でした。

サイゼリヤ流立地の考え

そのような中で、正垣氏は2号店を出す決心をします

そして、1975年9月に開店したのが市川南口店。

そこは市川でもっとも評判の悪い立地で直前の店子は夜逃げしたところでした

周辺の商店主からは「誰がやっても失敗する」と言われていましたが、もちろんサイゼリヤはそこでも大繁盛店となります。

『お客さんが来ないことを立地のせいにしてはいけないという1号店で得た教訓が役にたったのです。

多店舗化に向けて

サイゼリヤ3号店

イタリアの食文化を定着させるためには、それだけの規模、店舗数が必要であると正垣氏は思うようになっていました。

ある日、正垣氏が市川駅北口を歩いていると、空き店舗と書かれたビラが貼られた物件が目に入りました。

店舗面積はなんと約500平方メートルあり、ここであれば十分にお客さんが入ると思い、正垣氏はすぐに管理会社に連絡を取りました。

管理人と待ち合わせして中に入ると、驚くことに店舗面積の半分が厨房スペースで、調理機器もそのまま残っていました

こんなに広いと厨房スペースを持て余してしまうため、管理人も借り手を探すのに苦労していたのです。

『お兄ちゃん、うんと安くするから借りてってくれよ』借り手を探すのに苦労していた管理人からは何度もお願いされましたが、正垣にしてみれば、良い物件が天から降ってきたと舞い上がる気持ちだったと言います。

正垣は、厨房が大きければここで加工した食材を他の店舗に持って行き、仕込みが効率化できるのではないとか考えつきます。

今でいうセントラルキッチン(集中調理施設)のようなものです。

「急いで契約を進めましょう」契約を完了し開業すると、3号店もお客さんでいっぱいになりました。

市川には店を出し続け、マクドナルドが1店のところ、サイゼリヤは5店になりました。

5万~6万人の小商圏で1店はできる計算なので、正垣氏はこの時『1千店は必ずいける!』と確信に至ったのです。

店舗作業の合理化を進める

1987年に18店舗目をオープンし、初めて150席を超える店舗の営業を開始しました。

この頃に、オーダーエントリーシステム(無線で注文を飛ばす)の導入を開始したり、トレーを持たず、オーダー係と運ぶ係を分けるなど大型繁盛店舗を切り盛りするためのルールが作られていきます

また、独自のソースやドレッシングの製造を協力企業に依頼してプライベートブランドを展開し始めます。

レストランより工場で製造するほうが、品質の均一化と運搬時の劣化の軽減を実現できたということです。

イタリアからワインの直輸入を開始

100店舗を目前にし、ようやくマスメリットを活かし始められるようになります

100店舗の使用量を基に、イタリアのワイナリーに直接赴き、現地で品質を確認して購入契約を結びました。

商社を使わずに思い通りの品質を入手できることのメリットの大きさを学びました。

パスタは㌔270円だったのが、半額以下の130円まで下がったのです。

オリーブオイル・パスタ・チーズなどの直接輸入を開始

100店舗突破し、ワインに続き、オリーブオイル・パスタ・チーズなどの主力食材の直接輸入を開始します。これにより、品質の向上と価格の低減の両方を実現することができるようになります

正垣氏は、利益還元としてピザ・リゾットなど50~100円の初の大幅値下げを断行しました。

このようなメリットと同時に、在庫確保のリスクや品質異常のリスクなど直輸入の難しさも学んでいきます。

さらに、大きな駐車場が必要なロードサイド型の店舗も千葉県柏市を皮切りにオープンしていきます。また、この年より、新卒定期採用を開始することになります。

自社生産工場の設立・稼働開始

カミッサリー(食材の一次加工を行うセントラルキッチン)が稼働開始し、食品加工メーカーに生産委託していた製品を自社生産できるようになります

セントラルキッチンは料理人がオペレーションを回す一方で、カミッサリーは生産管理技術者がオペレーションを回すという意味で工場に近いものでした。

オリジナル製品を生産できるメリットはありましたが、生産に関する技術に疎く、当初は様々なトラブルが多発しました。

そこで、プライベートブランドの製造を委託していたメーカーに直接頼み込んで、優秀な社員を引き抜いていきます。

正垣氏は「生産管理にたけた優秀な人がたくさんいるでしょう。お願いですからくださいませんか」最初は味の素に頼み込みました。

「一番搾りに関わった人をくれませんか」とキリンビールの社長に直談判に行ったこともありました。ビールは何杯飲んでもなぜ飽きないのかを研究している人が欲しかったからです。

小さな企業を後押しするのが社会貢献と思ってくれたのか、1カ月後にはお目当ての人材を紹介してくれたのです。

東京証券取引所第一部に指定される

1998年4月に株式を店頭公開、1999年7月に東証第二部に上場を果たします。

2000年8月東京証券取引所第一部に指定替えを果たします

正垣氏はビジネスで、一番大事なことは、基本理念であると言っています。

サイゼリヤの基本理念は、「人のため 正しく 仲良く」であり、正垣氏としては、上場して従業員に資産を持たせたいと考えていたのです。

サイゼリヤの強さの秘密

サイゼリヤの強さは何と言っても「安くて、美味しい」という点。

サイゼリヤの安さは人件費を削ったり、安く仕入れることによって実現しているのではなく、原材料の調達や製造、流通改革を行って実現しているのです。

客数を最も重要視するが、店長に売上目標は課していない
店長には「食材ロス」「水道光熱費」「人件費」の管理を徹底させる
現場を疲弊させるため広告宣伝は行わない
工場の周辺の都道府県に戦略的にドミナント出店している
全国展開されていると思われているが、1都4県で国内半分以上を占めている
店舗はすべて直営で管理している
生産場所の近くにカミッサリーを建設するため良い素材を使える
野菜を作るために8億円で福島県白河市の広大な土地を購入
レタスは朝収穫して4℃まで下げて加工し、店まで搬送している
レタスは種から品種改良するほどのこだわりを持っている
野菜を作るために8億円で福島県白河市の広大な土地を購入
安くて質のよいホワイトソースを作るためにオーストラリアに自社工場を建設
原価率はその他のファミレスと比べて高い
人時生産性は通常の飲食店で2、3千円のところサイゼリヤでは6千円に達する

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コンパイル

コンパイルの創業

【創業者情報】
●氏 名:仁井谷 正充(にいたに まさみつ)
●生 誕:1950年2月10日広島県生まれ
●出身校:広島大学理学部中退
●職 業:『ぷよぷよ』を開発したコンパイル創業者で代表取締役社長

Coming Soon

鈴木商店

鈴木商店の創業

【創業者情報】
●氏 名:鈴木 岩次郎(すずき いわじろう)※写真左
●生 誕:1837年8月17日埼玉県川越市生まれ
●経 歴:魚屋の養子、菓子商の丁稚、米雑穀問屋の下働きなどで経験を積んだ
●職 業:鈴木商店の創業者

Coming Soon

三菱財閥

三菱財閥の創業

【創業者情報】
●氏 名:岩崎 弥太郎(いわさき やたろう)
●生 誕:1835年1月9日土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市)生まれ
●出 自:地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれる
●職 業:三菱財閥の創始者

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岩崎弥太郎の生い立ち

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岩崎弥太郎は、岩崎弥次郎と美和の長男として、土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれました。岩崎家はもともと安芸郡の侍として、長曾我部元親に仕えていました。

しかし、関ヶ原の合戦での敗北や、岩崎家の先祖が酒と博打で家を傾かせた影響で、弥太郎が生まれた頃には岩崎家は地下浪人の地位に転落していました。実は困窮の一因は弥太郎の父・弥次郎のせいでもあり、農業がへたくそなうえに、酒飲みだったことにありました。

弥次郎は、借金をしては田畑を手放しており、その性格は頑固で、酒を飲んでは相手をひどく罵倒することもしばしばでした。そんな性格から庄屋の島田氏や岩崎家の分家とのいざこざは絶えませんでした。

地下浪人は「士農工商」における「士」の最下位身分で、苗字帯刀は許されていましたが、「士」と「農」の中間の位置づけでした。

岩崎弥太郎の幼少期

少年時代の弥太郎は、いたずら好きのガキ大将でした。

かぼちゃの中に蝋燭を立てて鬼火に見せかけて村人を驚かせたり、狸が住んでいるとおぼしき木の根元の穴に藁をつめ火をつけて、山火事を起こしかけたりしました。

そんな弥太郎少年に対して、村人は「手のつけられん腕白だ」「将来ろくなもんにならんぜよ」と噂し合っていました。

弥太郎は、暴れん坊でいたずら者ではあっても、人のために助力をおしまない優しい心を持った少年でした。

剛と柔、勇気とやさしさ、荒さとち密さを合わせもっだスケールの大きさが、後年の豪商をつくりあげることになります。

一方で、学業のほうはてんでダメで、あまりの物覚えの悪さに、師匠からも愛想をつかされた塾を度々変えたほどだったと言います。

しかし、12歳の時に漢詩の出来を師匠に評価されたことで、詩作に熱中するようになります。また、14歳の時に藩主の山之内豊熈が安芸郡に巡察に来た時、漢詩を作って師匠と共に献上します。

その漢詩を見た藩主から直々に褒められたことで、弥太郎はますます向学心に燃えるようになります。

そして、15歳春に高知城下の岡本寧浦の塾に入り、その屋敷に寄宿するようになったのです。

この頃から弥太郎は『三国志』や『水滸伝』などの歴史書を読み漁っては、「将来自分は、世の中に名をなすだろう」と公言するようになりました。

歴史の授業中には塾生たちを前に、「もしも俺が宰相だったら、こんな愚策で国を滅ぼすことはしないだろう」と言いいました。それを聞いた塾生がお前はいった将来何様になるつもりなんだと尋ねると、平然とこう答えたそうです。

「治世の能吏(事務処理にすぐれた才能を示す役人)、乱世の姦雄(悪知恵にたけた英雄)になるのが自分の夢だ」

また、弥太郎は、字がものすごく下手でした。それを塾生にからかわれた際にはこう言い放ちました。

「別に構わない。俺は出世したら能筆家を雇うし、算盤上手も雇うだろう。だから字など下手でもよいのだ。諸芸に秀でようとして、枝葉末節の技術に時間をかけるのは無能者がやることだ」

弥太郎は大言壮語を吐くだけではありませんでした。昼間はゆうゆうと遊んでいましたが、夜が更けると人知れず、あんどんの明かりの下で必死に机に向かっていたのです。

あきらめの悪い男

岩崎家の分家の馬之助は弥太郎と同じ岡本寧浦の塾生であり、非常に優秀であり、弥太郎とはよきライバルでした。その頃、馬之助は江戸に留学しており、負けず嫌いの弥太郎は自分も江戸に留学したいという気持ちが抑えられなくなっていきます。

弥太郎は、両親にも相談をしますが、長男である弥太郎の留学など認められることはありませんでした。それでも弥太郎はあきらめず、知り合いの儒学者である奥宮慥斎が江戸詰めとなる話を聞くなり、その屋敷を訪ねました

そこで、己の志を奥宮に告げ、何としても一行に加えていただきたいと哀願したのです。この熱い気持ちに動かされた奥宮は、遂に弥太郎の同行を認めるまでに至ります。

執念深い男

ところが、念願の遊学からまだ1年も経たないうちに突然郷里の母親から驚くべき知らせを受け、土佐へ戻らなくてはいけなくなりました。

その知らせとは「弥次郎(弥太郎の父)が庄屋の島田から暴行を受けて、立ち上がれなくなってしまいました早く帰ってきてください」というものでした。

事実を知った弥太郎は、師匠に事情を話すや、すぐさま江戸を後にします。その足の速さは尋常ではありませんでした。当時江戸から京都までいくのに、徒歩だと最低半月はかかったのですが、それよりさらに遠方の土佐までたったの16日間で駆け抜けたのです。

いかに弥太郎が家族に対する思いやりの心を持っていたか、そして、激しやすく執念深い性格であったかが分かると思います。

土佐に帰りつくと、さっそく弥太郎は庄屋の島田を問いつめます。しかし、島田は知らぬ存ぜぬを通したため、ついに安芸郡の奉行所に訴え出ることにしました。

ところが、みな口裏を合わせて取り付く島もありません。また、奉行所は島田から賄賂も受け取っていたということを聞き、弥太郎の怒りはピークに達します。

そして、なんと奉行所の壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して立ち去ったのです。

しかし、奉行所はこれを黙認し、落書きをきれいに消してしまいました。すると弥太郎は、一度消された白壁に、またも落書きをします。

尋常ではない執念深い人物であったことが、このエピソードからも分かるでしょう。二度目となると、さすがの奉行所もこれを看過することができず、弥太郎は牢屋に入れられてしまったのです。

まだまだ諦めない男

吉田東洋

実は、その後1年半に及ぶ訴訟の間に弥太郎は財産をほとんど使い切り、田地も失ってしまいました。

家計も火の車で、再び江戸に留学することもできないという、絶望的な状況に陥ってしまいます。そんな状況下でも、弥太郎は決して自暴自棄にはなりませんでした。

私塾を開き、子どもたちに漢学を教え始めたのです。塾には、後に坂本龍馬と共に亀山車中の一員として活躍する、近藤長次郎などもいました。

この頃、参政として藩政改革を断行していた吉田東洋が酒宴での狼狽により蟄居処分となっていました。東洋は蟄居先で少林塾を開設していて、甥の後藤象二郎や福岡孝弟などを集めて教育にあたっていました。

ここで、弥太郎は吉田東洋と面識を得るようになり、その才能を売り込んでいったと思われます。

やがて、吉田東洋は赦免されて、参政に復帰します。そして、後藤象二郎ら少林塾の門下生を抜擢していくようになるのです。

弥太郎も、郷回という農村を巡察する下級役人の役職を得ることができ、郷回になってすぐ上士と共に長崎へ赴きました。地下浪人の身分であった弥太郎が、その後の栄達のきっかけを手にした瞬間でもありました。

弥太郎25歳の時でした。

誘惑に弱かった男

ところが、長崎に赴いて半年も経たないうちに、弥太郎は土佐に帰ってくることになります。遊郭の女に入れ込んだあげく、藩から支給されていた公金を使い込んでしまったのです。

とにかくお詫びをするために土佐に帰ろうと思ったのですが、料亭には借金があるし、旅費もありません。1ヵ月の間、弥太郎は金策に走り回りました。

金が都合できるとすぐに長崎を発ったのですが、藩庁には弥太郎に対する怒りの声が多くあがりました。弥太郎の才能を認めていた吉田東洋も弥太郎をかばいきれずに、弥太郎は免職になってしまったのです。

こうして、やっとつかんだ出世の糸を、誘惑に負けて自らの手で切ってしまいました。その後は反省もあってか、しばらく生家の田畑を耕して生活し、やがて妻の喜勢と結婚しました。

三菱商会創設の経緯

吉田東洋の死後、藩の中枢にいた東洋の門下生たちは次々と失脚し、保守派と尊皇攘夷派に権力が集まっていきました。

やがて、土佐の政権事情がまた大きく変わります。京都を牛耳っていた長州系志士が会津・薩摩らの公武合体派に駆逐される八月十八日の政変が起こります。

駆逐された志士たちは翌年、京都に火を放って孝明天皇を拉致し、公武合体派諸侯を殺害しようと企みました。しかし、新選組によって屯集していた池田屋を襲撃されて一網打尽になってしまいます(池田屋事件)。

これを知って激怒した長州藩士は大挙して京都になだれ込み、薩摩・会津藩と衝突しました。結果、長州藩は大敗しました。

また、四国艦隊(英・米・蘭・仏)に下関を攻撃されるなどのダメージを追っていたこともあり、ここにおいて長州藩は攘夷の不可を悟ります

一方の土佐では、土佐勤王党の武市半平太が失脚して、後藤象二郎を中心とする改革派が再び実権を握るようになっていました。そして弥太郎は、後藤象二郎から三郡奉行の下役として藩から正式に召し出されることになります。

その後、開成館貨幣局へ移動し、長崎にある貨幣局の出張所(土佐商会)に勤務することを命じられました。

ここが弥太郎にとって、人生最大の転機でした。

この土佐商会の財産を引き継いで三菱商会を創設することになるのです。

巨大海運会社へ急成長

挿絵『竜馬の夢を育てて三菱をつくった岩崎弥太郎』より

弥太郎は、三菱商会の社員に対して「俺は国内の汽船会社に競り勝ち、外国汽船を追い払い、やがては世界に進出してたくさんの海外航路を開いて、世界中の港に日の丸がはためくようにしてみせる」と常に語っていました。

大言壮語を吐き、誰もが仰天するような大風呂敷を広げることは幼少期から変わらなかったのです。しかも大言壮語を吐くだけでなく、当人はそれを本気で実現しようと思い、誰よりも努力をするのが岩崎弥太郎という男でした。

そして、三菱の社員は弥太郎の夢に向かってよく働きました。また、外国商人の弥太郎に対する信頼は絶大で、その人脈を利用して、彼らから資金を調達します。その資金を元手に三菱の海運事業は大きな利益を上げていくことになるのです。

そんな中、1872年に政府は外国の汽船会社に打ち勝つために、三井、鴻池、島田といった政商たちにはかって、日本国郵便蒸汽船会社を創設させました。

この会社ができた頃は、三菱商会は到底それに太刀打ちできるだけの力を持っていませんでした。しかし、それからたった1年で、この巨大海運会社と肩を並べるほどに三菱商会は急成長を遂げることになるのです。

この急速な成長の背景には、徹底したサービス戦略がありました。社員には旧藩士が多く、支配階級としての立ち振る舞いが抜けきらない者が多くいました。この姿勢を改めさせるために、社員に前垂れの着用を命じ、顧客に頭を下げることを徹底したのです。

どうしても顧客に頭を下げることができない社員には、「客に頭を下げなくてはんらなくなったときには、俺があげた小判が書かれた扇子を開け」と言いました。つまり、客に頭を下げるのではない、小判に頭を下げると思えばいいのだと言って戒めたのです。

一方、日本国郵便蒸汽船会社のほうは、半官半民であったため、その地位にあぐらをかき、客への接し方も極めて横柄でした。

両社は、激しい競争を繰り広げます。その競争の結果、問屋や荷主たちは、サービス精神に優れた三菱商会のほうにだんだんと注文をするようになっていきました。日に日に力を増していった三菱商会は、たった1年で日本国郵便蒸汽船会社と肩を並べるようになったのです。

勝負をかけるタイミング

台湾出兵時の日本人兵士

そんな折、台湾に漂着した琉球漁民54人が台湾の住人に殺害される事件が起きます。明治政府は損害賠償を求めましたが、清国はそれを拒絶し、明治政府は外交交渉をあきらめて台湾への出兵を決めます。

列強諸国は中立の立場を宣言し、日本で営業している外国の汽船会社からは輸送を拒否されてしまいます

そこで、政府は日本国郵便蒸汽船会社に輸送を命じますが、この依頼に対して、同社の頭取であった岩橋万蔵が難色を示します。いま台湾への兵糧輸送を引き受ければ、国内における海運契約はみんな三菱に持っていかれてしまうと危惧したのです。また、もしこの依頼を拒絶すれば、政府は間違いなく三菱商会に仕事を依頼するはずだと考えます。まんまと三菱が輸送を請け負えば、国内シェアを三菱から取り戻せるかもしれないという算段があったのです。

案の定、政府は三菱にこの仕事を依頼しました。弥太郎はこの依頼に対して、次のように回答します。「光栄これより大なるはなし。敢えて力を尽して政府の重荷に耐えざらんや」なんと、この仕事の依頼を喜んで引き受けたのです。岩橋の考えとは正反対に弥太郎は、この仕事を三菱にとっての千載一遇の好機とみなしたのです。

弥太郎の言葉に次のような言葉を残しています。「およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである」弥太郎は、困っている政府に対してまず与えようと考えたのです。弥太郎の先を見通す力と、勝負をかけた決断に、その類まれな商才を見ることができるでしょう。

結果はどうだったのでしょうか。

台湾への輸送は、現在の三菱の持ち船だけでは足りないだろうという政府の配慮から、三菱商会は政府が購入した金川丸や東京丸など三隻を貸与されました。その後も次々と船を貸し与えられ、その数は合わせて10隻にもなりました。しかもこれらの船は台湾出兵後もそのまま委託というかたちで使用することが認められたのです。

この結果、三菱商会は日本国郵便蒸汽船会社を凌駕し、海運のシェアも一気に同社を抜き去ることになります。

同時に、台湾への往復という海洋航海の経験は、三菱の社員たちの航海技術を一挙に向上させ、のちの海外航路開拓に大いに役立っていきました。

『しくじり先生』の全編を観るには、

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CSK

CSKの創業

【創業者情報】
●氏 名:大川 功(おおかわ いさお)
●生 誕:1926年5月19日大阪府大阪市生まれ
●出 自:大阪船場で婦人子供服地の卸店「大川商店」を営む両親の次男として生まれる
●職 業:システムインテグレーターのCSKの創業者(セガの会長および社長を歴任)

Coming Soon

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