成功の不変の法則!ロックフェラーと藤田田のユダヤの商法、商売に対する洞察に迫る

ユダヤの商法

Jewish commercial law

売感覚に優れた民族として世界的に名高いのが、ユダヤ人です。「ビジネスで成功したければ彼らに学べ」という教えもあるほどで、ユダヤ人の教えを活かした企業経営で成功した経営者・実業家は少なくありません。根っからの商売上手であるユダヤ人は、なぜ時代が変わってもビジネスで成功し続けられるのか――。今回はそんなユダヤ人の成功哲学を2人の人物を通してご紹介します。

ジョン・D・ロックフェラー

1839年
ニューヨーク州リッチフォードにてジョン・D・ロックフェラー誕生
1858年
友人と共同で会社を設立、南北戦争のあおりで大繁盛、製油所の本格的な運営を始める
1870年
スタンダード石油会社設立
1882年
スタンダード石油トラストを形成、名実ともに「世界の石油王」へ
1911年
アメリカ大統領より、スタンダード石油会社解散命令、ジョン・D・ロックフェラー事実上の引退
1937年
ジョン・D・ロックフェラー永眠(享年97)

ジョン・D・ロックフェラーの生い立ち

ョン・D・ロックフェラーは、石油の一大帝国を築いたアメリカ史上最大の大富豪だと言われており、その資産額は、現在の価値に換算すると2,530億ドル(約27兆円)に相当します。ジョンは、ニューヨーク州リッチフォードで、6人兄弟の第2子(長男)として生まれました。ジョンの父親エイブリーは、怪しげな薬を売り歩く「山師」のようなセールスマンであった一方、母親は敬虔なクリスチャンとして聖書の教えに則った質素倹約な生活を送り、子どもたちを育てました。

 その当時、ロックフェラー家は大変貧しい生活をしており、ジョンは、自ら野菜や七面鳥を売ったり、近所の農夫に年利7%で金貸しをするなどして家計を助けていました。そんなジョンが、4歳の時から欠かさず続けていたことは、お小遣い帳をつけることでした。彼は1セントだって付け忘れることのない几帳面さと、質素倹約の精神をこの頃に身に付けていたのです。

下積み時代

ョンは数学や経理が得意で、高校時代に商科大学のビジネスコースを受講して簿記を学びました。卒業後は、穀物などの委託販売会社ヒュウイット&タトル商会で会計係として働き、忠実な仕事ぶりで高い評価を得ていました。そんなジョンは、給料のほとんどを母親に渡し、自分で使うのは幼い頃から亡くなるまで続けていた教会への寄付くらいのものでした。

 ある時、その教会に災難がふりかかります。教会の建物が借金の抵当に取られてしまい2000㌦の借金が払えないと、教会が売りに出されてしまうことになってしまったのです。その日から、ジョンは仕事を終えた後に、あちらこちらを回っては教科への寄付を募り始めます。そして3ヶ月後、ジョンの連日にわたる募金活動と教会の帳簿のやりくりで、何とかこの難局を乗り越えることができたのです。その時、ジョンの中に「もっとお金を稼がなくては」という野心が芽生えたと言います。

19歳で独立

の後、ジョンは19歳で友人のモーリス・クラークと共に、委託販売会社「クラーク&ロックフェラー社」を設立します。開業資金は自分の800㌦の貯金と、父エイブリーからの年利10%の1000㌦でした。その後、1859年にオイルラッシュが到来し、一攫千金を目指した山師が、こぞって土地の買い占めに奔走し始めます。
 そんな中、ジョンも石油がやがて途方もない商売になると直感し、すぐに石油を商品の一部として取り入れていくことになります。ジョンは満を持して、クリープランドにある石油の精製を行う工場を購入します。石油の採掘そのものには手を出さず、人が採掘した石油を買い集め精製し販売するビジネスを始めたのです。

 ジョンは朝早くから工場に行き、すべての製造プロセスを監督するようになります。そして、優秀な化学者を雇って、どんな不純物を含んだ石油でも精製できる技術を開発し、これまで廃棄していた精製工程の副産物を利用する方法を考えるなど、効率よく利益を上げることに注力しました。

 ただし、石油が革命をもたらすには、まだまだ貯蔵や運搬方法などに、多くの課題が残されていました。そこで、ジョンが採用した戦略は、原油探鉱・生産には手を出さず輸送部門を独占することで原油生産の支配と製油業者の統合を図るというものだったのです。そして、その戦略は見事に成功します。その成功の秘訣は、鉄道会社に賄賂を渡し、特別輸送契約の割引運賃によって他社を駆逐したことにありました。そして、どこよりも安く大量に石油製品を売りさばき、競争相手は次々と倒産していくのです。それでも、屈しないライバルには、銀行に手を回し資金をストップさせるなど、ライバルを駆逐するためには手段を選びませんでした

スタンダード・オイル社を設立

ジョンは、酒も遊びもやらず、ひたすら商売を拡大していきます。そして、1882年、ジョンは「スタンダード・オイル・トラスト」を設立し、原油生産・製油・小売りなど、石油関連企業41社を支配することで、市場の90%を独占することになります。

 しかし、1890年に「シャーマン・反トラスト法」が成立し、スタンダート・オイル社は34社に分割されました。世界的規模の石油関連企業である「シェブロン」「エクソンモービル」なども、このときスタンダート・オイルから分割された会社だったのです。こうして、倒すか倒されるかという熾烈な競争を勝ち抜き、原油の精製から輸送、販売まで一貫して扱う石油の一大帝国を築いていくことになったのです。

ジョン・D・ロックフェラーの名言

私は成功を確信しなければ絶対に事業に着手しない。有望な計画を提案されても、完全に納得しなければ断る。

攻撃には沈黙を守り、自らの行動で答えを示す。

競争は罪だ。

富は節約から生まれる。

あの時どんなに成功を渇望していたか、けっして忘れることはない。私は貨車の上から下まで駆け下り、駆け上がり、部下たちを急かした。

自分では何もしないで、自己満足という快適な場所からひねくれた分別くさい意見を言うのと、粉骨砕身してたどり着いた確実な結論を述べるのは、まったく違うことだ。

金持ちになることがあなたの唯一の目標なら、あなたは絶対に金持ちにはなれない。

ビジネスの上に築かれた友情は、友情の上に築かれたビジネスより強い。

人の豊かさは、自分の所得に対する願望と支出の関係で決まる。10㌦で豊かな気分になり、他のすべてが自分の望みどおりであるなら、その人は本当の金持ちだ。

お金を儲けるなら、みながパニックを起こしていっせいに売りに出したときに買うことだ。

貧しい金持ちとは、お金だけが好きで、お金以外のことを考えない人間のことだ。そういう貧しい人間は自分の人格も、他人の人格も、高めることができない。

自分がやりたいと思っていることができる人物を探せ。そして、その人物に制約をつけずに一任することだ。

実業家にとって最も重要なことは、他のすべての分野を捨てたビジネスだけの人生にならないようにすることだ。

敵を同胞とせよ。

なかなか財布にお金を残しておけない人がいる。私は小銭を残す大切さを学んだ。お金とは貯めて管理するものなのだと教えられた。

幸せになるための単純な原則が2つある。興味があり、かつ自分がうまくできると思うものを見つけること、それに全身全霊でー自分が持つすべてのエネルギー、熱意、天賦の才能を動員して、打ち込むことだ。

あらゆる商売敵の破滅は自分の利益につながる。

いつまでも自分の役に立つのは、自力でしたことだけだ。

幸せを願い、他人を助けたいとは思っているが、そのための寄付は一財産作るまで待とう、という考えは間違っている。

商売でも、信仰でも、学問でも、適切な関係の基礎は、誠実さだ。

ゴールにたどり着く唯一の道は、絶えず進み続けることにある。

人と交渉する才能は商品であり、この商品には惜しみなく払え。

人と交渉する才能は商品であり、この商品には惜しみなく払え。

藤田田の生い立ち

『ユダヤの商法』の著者である藤田田は、日本マクドナルドの創業者であり、米国発祥のハンバーガーを初めて日本に持ち込んだ人物です。藤田は、1926年大阪に生まれ、父は外資系企業に勤める電気技師、母は教育熱心なクリスチャンでした。その後、旧制北野中学、旧制松江高校という名門校を経て、戦後の48年、東京大学法学部に入学します。

 高校のときも大学のときも頭は抜群に良く、秀才というより発想に優れた天才でしたが、受験勉強とか学校秀才を徹底的に馬鹿にしていたと言います。そんな藤田は、退屈な学生生活を紛らわすべく、マッカーサーの司令部へ出向いて、通訳として雇ってくれないかと頼むのです。

 その後、無事に採用試験を通過して、下士官や兵隊相手の通訳として米軍に出入りするようになります。藤田は大学へは一切行かなくなり、ビルの地下に寝泊まりして、軍曹や伍長の通訳を3年間やったのです。そんな彼に影響を与えたのが、GHQで触れたアメリカ文化でした。ハンバーガーやコーラといった食文化や、冷蔵庫、タイプライター、大きなアメ車といった豊かな物質文化に触れていったのです。

ユダヤ人との出会い

して、何よりも藤田に大きな影響を与えたのが、ユダヤ人軍曹との出会いだったのです。そのユダヤ人軍曹は、下士官なのに将校よりいい服を着て、いい車に乗っていました。藤田が他の兵隊に『どうしてだ?』と聞くと、「あいつはジューだから金貸しで儲けてる」と眉をひそめたのです。

 ジューとはユダヤ人のことで、ユダヤ人は自分たちを神に選ばれた優秀な民族で、それ以外の民族はバカだと言ってはばかりませんでし。機転がきく彼は、そんなユダヤ人にかわいがられ商売のコツを教えてもらうことになります。そして、東大在学中だった24歳のとき、通訳をやりながら、貿易商社「藤田商店」を設立するのです。主な仕事は米軍の売店に雑貨や食料品を卸すことでした。

日本マクドナルドの誕生

田田は日本マクドナルドの創業経営者であり、日本人にファストフードとしてのハンバーガーを教えた先駆者でもあります。藤田田が創業した日本マクドナルドが大成功したのは、米国のマクドナルドの創業者であるチェコ系ユダヤ人、レイ・クロックとの信頼関係にありました。

 クロックは「米と魚の食文化の国=日本」では、ハンバーガー・ビジネスが失敗する確率は高いと考えていました。それを成功させるのは傑出した起業家が必要だと思っていたのです。だからこそ、日本の商社、スーパーマーケット、食品会社など300社近くが、エリアフランチャイジー(AFC)をやりたいと申し出てきたのを拒否したのです。

 そして、藤田と1対1で会ったときに、起業家としての突出した才能を見抜き、「あなたならできる」とマクドナルドのハンバーガー・ビジネスをやるように薦めました。その際に藤田田が提示した条件は、出資比率は50対50、しかもアメリカのアドバイスは受けるが命令は受けない、経営は日本人がやるというものでした。
 エリアフランチャイズ(AFC)ではあり得ない日本優位の条件を呑ませたのです。また、店名もアメリカ人の『マクダーナルズ』という発音は日本人には馴染まないとして、『マクド・ナルド』に変えました。

藤田田に会いにきた16歳の少年|

フトバンクの創業者で知られている孫正義氏は、16歳で高校を中退してアメリカへ行き、夏休みで日本に戻った時に、どうしても藤田さんに会いたいと思ったと言います。そんな孫少年は、藤田に会いたいという思いが抑えられず、久留米から毎日毎日、藤田の秘書に電話をかけたのです。しかし、当時の市外電話の料金はものすごく高く、電話をかけるより直接会いに行ってやろうと、アポイントも取らずに飛行機に乗ったのです。羽田空港に着いて、そこから藤田の秘書に改めて電話をかけます。

 「私は、藤田さんの本を読んで感激しました。ぜひ、一度お目にかかりたい。しかし、藤田さんがお忙しいことは重々承知しています。顔を見るだけでいいんです。3分間、社長室の中に入れてくれれば、それでいい。私はそばに立って、藤田さんの顔を眺めています。目も合わさない、話もしないということなら藤田さんのお邪魔にはならないんじゃないでしょうか…」

 そして、秘書の方に、孫少年が話した通りのメモを作って、それを藤田本人に渡して欲しいと頼んだのです。

 「それでも、藤田さんが会う時間はないと言うのなら、私は帰ります。ただし、秘書のあなたが判断しないでください。」

 そう言って念を押しました。秘書から話を聞いた藤田は、15分だけという条件で、その少年に会ったのです。その対面で孫少年は藤田に問いかけます。

 「わたしは九州鳥栖の出身で、これからアメリカに行って勉強したいのですが、なにを勉強したらいいでしょうか。自動車とか飛行機とか石油とか、学びたいことはいろいろあるのですが」

 そこで藤田は、孫少年にこう言います。「今はこの部屋くらい大きなコンピュータを使っているが、遠からずハンディなものになるだろう。アメリカに行って勉強するならコンピュータしかない。コンピュータだけ勉強してらっしゃい」と。

78対22の法則

えば世の中には「金を貸したい人」が多いか、「金を借りたい人」が多いのでしょうか?一般的には、「借りたい人」の方が多いと思われているようですが、事実は逆です。マンション投資などのインチキ金融に引っかかる人が多いのも「借りたい人」より「貸したい人」の方が多い何よりの証拠だと藤田田は語っています。

 一般大衆に比べて、金持ちは数こそ少ないですが、金持ちが持っている金の方が圧倒的に多いのです。一般大衆が持っているお金を22とすれば、わずかな数の金持ちが持っているお金は78になります。つまり、少数の22を相手にするよりも、78を相手に商売をした方が儲かるということなのです。

ユダヤの商法で扱う商品は「女性と口」の2つ

ダヤ商法に商品はふたつしかありません。それは「女性と口」です。ユダヤ5700年の歴史が教えるところでは、男性は働いて金を稼いでくるものであり、女性は男性が稼いできた金を使って生活を成り立たせるものであると言われています。

 だからこそ、古今東西儲けようと思えば、女性をターゲットにすれば必ず成功するというわけです。逆に、商売で男性をターゲットにするのは、女性をターゲットにするよりも10倍以上難しいと藤田田は言っています。というのも、男性は金を消費する権限を持っていないことが多いからなのです。

 そして、もうひとつの口とは、つまり「口に入れるものを取り扱う商売」のことです。口に入ったものは必ず消化され、排出されます。つまり、口へ入れられた商品は刻々と消費され、数時間後には次の商品が必要になってくるのです。ユダヤ商法では、女性用商品を「第一の商品」とし、口に入れる商品を「第二の商品」としています。それはなぜかというと、女性用品よりも、口に入れる商品の方が儲けることが難しいからです。

辛抱よりは見切り千両

ダヤ人は相手の気持ちが変わるまで辛抱強く待つ反面、ソロバン勘定に合わないと分かれば、すぐさま手を引いてしまうといいます。ユダヤ人がある商売に資金や人を投入することを決めると、1カ月後、2か月後、3か月後の計画を立てます。1カ月待ち、計画との間にかなりのズレがあっても、不安なそぶりや童謡は全く見せません。これは2ヶ月目も同様です。ところが、3ヶ月目の実績が計画通りにいかない場合、よほどの好転の見通しが見えない限り、思い切りよく手を引いてしまうといいます。それまで注ぎ込んだ資金と人的資源を一切放棄することにまったく躊躇がないということなのです。

大損しても納期は守れ

田田が、アメリカンオイル社からナイフとフォーク300万本を受注した時のことです。アメリカンオイル社はスタンダード石油の親会社であり、ジョン・ロックフェラーという人物が創業したユダヤ系資本の会社でした。

 納期は9月1日だったので、8月1日に横浜を出港すれば、なんとか間に合うはずでした。ところが、藤田田が製造元を訪れると製造がいっこうにはかどっていなかったのです。結局、製品が出来上がったのは8月27日で、9月1日の納期に間に合わせるには飛行機しか選択肢がありませんでした。飛行機のチャーター費は約1000万円(1968年当時)かかり、ナイフとフォーク300万本の代金ではとても引き合いませんでした。それでも、藤田田はあえて飛行機をチャーターしました。

 それは、一度でも契約を破った相手を、ユダヤ人は絶対に信用しないことを痛いほど理解していたからでした。製品が遅れた原因が当人にはないとしても、ユダヤ人は常に「ノーエクスプラネーションー説明無用」なのです。飛行機のチャーターで大損をしたものの、ユダヤ人の信用を買ったのです。その情報はまたたく間に世界各地のユダヤ人に伝わり、その後の商売の発展へと大いに結びついていくことになりました。

絶対にまけない売り方

ダヤの商人は、ある商品を高く売ることについて、あらゆる資料を用いて、高く売ることがいかに正当であるかを説明しようとします。統計資料やパンフレット、ありとあらゆるものが高く売るために活用されるのです。ユダヤ人はこれらの資料を活用し、消費者を教育するのです。そして、商品に自信を持っているから、絶対にまけましょうとは言いません。「いい商品だからまけない、まけないから利益が大きい」ユダヤの商法が儲かる秘密がここにもあるのです。

藤田田の名言

毎分、毎分判断してジャッジを下していく積み重ねが、大きな人生になっていく。成功する原因は自分がつくっているのである。その成功の見えない原因を人は「運」と呼ぶが、見えないだけで原因は存在しているのである。

一日は二十四時間で、しかも万人に与えられている。その時間をいかに有効に使っていくかが勝負である。二十四時間の積み重ねがツキを招き、成功に至るのだから、一分一秒といえどもおろそかにすべきではない。

ベンチャービジネスは、10人のうち7人が賛成するようなことをやっていたのではダメである。むしろ10人のうち7人が反対したから注目するのだ、という考えこそ必要である。

ことを始めるにあたって、他の奴も同じ事を考えているのではないかと危惧する必要はない。このことについては、自分自身が一番精通している、自分自身が天下の第一人者だ、と思うべきである。

「これから死ぬ老人を相手にしても始まらない。これから生まれてくる人間を相手にしろ」というのはわたしの口グセ。

自分が常に120パーセントの厳しさを持っていれば、他人は60パーセントできれば満点だという気持ちになる。

世界の冠たる商人たちは、決して「ギブ・アンド・テイク」などとは言わない。彼らのモットーは「テイク・アンド・アスク・フォーモア」である。つまり取ったうえで、「さらにもっとよこせ」というのである。これなら儲かる。

「きれいな金」「汚い金」といった金銭感覚は、すぐさまきれいさっぱり捨ててしまうことだ。捨ててしまって、金儲けは人生の最重要事項だと心得ることだ。

成功が約束されたビジネスであれば、不安はない。しかし、そんなビジネスなどは存在しない。成功を信じ、過去の成功を踏み台にして成功を目指し、前進するのみである。

必要なのは、絶対100パーセント成功するという思い込みではなく、絶対成功する、させてみせると自分で信じることである。要するに「思いは真実になる」ということを、自分で自分自身に信じさせることである。自信過剰なくらい自分で信じることである。

(銀座のまん中に第1号店を出したことについての言葉)要するに日本の輸入文化はすべて東京からはじまっているのです。ケンタッキーフライドチキンは名古屋の郊外からはじめましたが、間違っておるんですよ。東京の中心は銀座ですから、当然銀座からはじめました。

脳みその中は、常に柔らかくしておいて、既成概念などふっ飛ばしてしまう事が、先見の明に繋がる近道でもある。

参考文献