維新の三傑 大久保利通の知られざる素顔とは?その複雑な人間像を探る

人物ネタ

維新の三傑と称される大久保利通は、日本の歴史に深く刻まれた偉大なる存在です。そんな彼が誰からも好かれなかった理由は、友であった西郷隆盛という英雄を死に追いやったからに違いありません。しかし、大久保利通がいなければ、維新のみならず、その後の日本の近代化はおぼつかなかったでしょう。

彼は仕事においては人前ではほとんど笑顔を見せず、寡黙であり、他人の多弁を嫌う性格でした。玄関が開いて内務省内に利通の靴音が響くと、職員たちは雑談を止め、水を打ったように静まり返ったと言われています。しかし、家の中ではまるで別人のように変貌し、情に厚い人物としても知られていました。人情の人である西郷隆盛と対比されがちな大久保利通。この記事では、己がつくりあげた新政府のためには死をもいとわないという気魄によって、日本の近代化を成し遂げた大久保利通の政治家としての覚悟の姿に迫ります。

| 死を決して政治にあたった覚悟

大久保利通、彼の名前は日本の歴史に明治維新の1ページを刻んだ偉大な政治家です。彼は西郷隆盛を殺した男という汚名を着ながらも、覚悟を持って新政府の礎を築きました。仕事においてはほとんど笑顔を見せず、寡黙であり、他人の多弁を嫌う性格でした。玄関が開き、内務省内に利通の靴音が響くと、職員たちは雑談を止め、水を打ったように静まり返ったと言われています。

西郷と征韓論を巡って意見が対立した際、容赦なく西郷を政府から追い払うなど、冷徹なイメージがつきまとう大久保でしたが、実は別の一面も持っていました。大久保利通はとても情に厚い人であり、家族思いのマイホームパパでもありました。家の中では笑いが絶えず、子供の教育にも熱心だったのです。

西郷隆盛が反乱を起こした際、弟の西郷従道が政府内での肩身の狭さから自宅に引きこもってしまった時、大久保だけは、彼に海外で外交官として赴任する打診をするなど、常に気遣いの人だったと言われています。

| 権力側にいなければ何も変えられない

大久保利通がなぜ嫌われる存在となったのか、その理由の一つに彼がずっと権力サイドにい続けたことが挙げられます。彼は敬愛していた藩主の島津斉彬が急逝した後、政敵であった弟の久光のもとで重役にまで昇進しました。そして、西郷隆盛が力を持つようになると、大久保は友と組んで藩内で影響力を保ちました。そして維新前後は岩倉具視と組んで新政府に重要な役割を果たし、ついに明治6年には盟友であった西郷を追い落とし、自らが政府の実権を握るまでに至ったのです。

大久保利通の過去には、若い頃に父親に連座して職を奪われたという経験がありました。彼はそのような経験から、権力サイドから転落することがいかに惨めなものであり、無力な存在であるかを身をもって知っていたのです。そのため、彼は自身の地位を守るために巧妙な策略を巡らせ、孤独な戦いを強いられていたのです。

| 難局には自ら出向いて解決をはかる

日本の政治家は、雄弁でありながら重要な場面での実際の行動に欠けているように思えます。しかし、大久保利通は、自ら行動し、困難な局面を解決に導いた真の指導者でした。利通は、王政復古の大号令、廃藩置県、征韓論、台湾出兵の後始末、佐賀の乱など、日本史上の重要な出来事において、自ら現地に赴き解決にあたりました。彼は言葉ではなく行動で示し、覚悟を持って難局に臨みました

大久保利通がその覚悟を示した一つの例は、佐賀の乱です。当時、佐賀県では不平士族の初の大規模反乱が勃発しました。この反乱を鎮圧させるため、利通は自ら佐賀に赴き、現地の情勢を鑑みた上で的確な対策を講じました。彼は身を挺して問題に立ち向かい、乱の首謀者は厳罰に処するという断固たる姿勢を貫き、国家の安定に貢献したのです。

| 最期のとき

1877年、西南戦争が終結した後、わずか1年も経たない明治11年のある日、大久保利通は馬車で皇居へ向かう途中、彼は突然の悲劇に見舞われました。東京都千代田区紀尾井町の清水谷にて、6人の不平士族によって殺害されたのです。

大久保は、その死を迎えるときまで、西郷の手紙を肌身離さず持っていました。人からどう思われようとも、変わらぬ旧友への想いがそこにあったのです。大久保利通は決して華美な生活を送ることなく、公共事業に自らの私財を投じるなど、慎ましい生活を送っていました。彼の死後に明らかになったのは、その財産がわずか140円に対して借金が8000円も残っていたことでした。現代の貨幣価値に換算すれば、1億円以上にも及ぶ巨額の借金となります

大久保利通は自身の信念に基づき、日本の近代化と発展のために尽力しました。彼は財産や地位を追い求めることなく、国家のために全身全霊を捧げたのです。その犠牲と覚悟は、彼の生涯を通じて示されました。薩摩の下加治屋町で共に育ち、年少の頃からお互いを認め合った、西郷と大久保は死を迎えるその瞬間まで深く繋がっていたと言えるでしょう

| 大久保利通の名言

彼は彼、我は我でいこうよ

自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない

失敗に落胆しなさるな、失敗に打ち勝たなければならぬ、度々失敗するとそれで此大切なる経験を得る。其経験に依って以て成功をきさなければならぬのである

堅忍不抜

自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない

おはん(西郷隆盛)の死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が

下級官僚から栄達するには、上司の信頼を得ることが第一である。条理や正義に背くならまだしも、大志を抱いているなら、たったいま、才能を誇り、智におごるのをやめなさい。務めて深慮熟考の習慣をつけなさい。そうでなければ、国家を動かす器となることができず、大きな才能を持ちながら、むなしい人生を送ることになるだろう

内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい

やりすぎるのはやり足りぬより悪い

政治も戦争も正当な根拠なしに行って成功することはない

政治というのは、常に熱湯をなみなみ入れた器を持ち歩いているように思うことだ。器を持って進むには、しっかり足を地につけ、少しずつ前進しなくてはいけない。速く進んだら急に出てきた人を避けきれず、かえって器から熱湯がこぼれ、手がただれてしまう心配がある

海外に行ったら、とにかく様々なものを細かく観察することが重要だが、局部だけ見ていると真相を誤ることがある。一つの事柄は前から後ろから、表から裏からと、大局的に見て判断することが重要である

| 参考文献

(著者)佐々木 克|(書名)大久保利通|(出版社)講談社|(出版年)2004年

(著者)河合敦|(書名)最強の教訓! 日本史|(出版社)PHP研究所|(出版年)2021年