西郷隆盛は、幕末から明治初期にかけて活躍した日本の政治家、軍人です。薩摩藩の下級藩士の長男として生まれた西郷隆盛は、藩主の島津斉彬に見いだされ、政治家としての才能を発揮し、新政府軍の総督として戊辰戦争を戦いました。やがて、不平士族の新政府への不満をすべて引き受ける形で、彼らとともに最期を迎えました。しかし、彼の偉大さは単に武勇だけにあるわけではありません。彼の人間性には、多くの魅力がありました。この記事では、西郷隆盛の人物評をまとめ、その人間性の魅力に迫ります。
| 渋沢栄一の西郷隆盛評
倒幕が果たされて、明治時代の幕が開けた。渋沢が大蔵省に勤めていたころのことである。大久保、木戸孝允、そして、西郷を首脳とした評議会が開催された。各省の権限について話が及び、木戸が「三条太政大臣、岩倉右大臣にも出席してもらうようにするか」と言うと、西郷は唐突にこう言った。
「まだ戦争が足りないようにごわすね」戦争が足りない、とはいったいどういうことだろうか。いきなり意味不明な言葉を浴びせられ、一同は顔を見合わせた。わけのわからない事態を収拾するのは、いつも木戸の役割である。あらためて西郷に説明を重ねた。
「今は、朝廷が持つ権利と政府が持つ権利をどう区別していくか、という議論であり、それには、太政大臣と右大臣が出席したほうがよいのでは、という提案である」
栄一も「西郷は少しウツケ(愚か者)だな」と胸中で思いながら、木戸の説明に補足をし、議論の軌道修正を試みた。だが、西郷はまたもこう口にする。「いや、話の筋はわかってい申すが、そぎゃんこと何の必要なごわすか? まだ戦争な足り申さん。も少し戦争せななり申さん」
これではまるでらちが明かない。2~3時間もそんなやりとりが行われ、あきれて退出する者も出てくる始末。会議は、いったんお開きとなった。仕方がないので、渋沢は井上馨とともに馬車に乗って、大蔵省に帰った。道中では、行き場のない不満を、井上にぶつけている。
「西郷のあのザマは何ですか」
よほど苛立ったのだろう。渋沢も言葉遣いが荒いが、井上はこんなふうに言って、渋沢をなだめている。
「西郷はまさかあんな馬鹿じゃないよ」そんなある日、井上は渋沢を呼び寄せた。何でも西郷の「まだ戦争が足りない」の真意が明らかになったのだという。
「わかったよ、わかったよ、このあいだ西郷のトボケた意味が……」
西郷が発した「戦争が足りない」という言葉の真意について、井上は渋沢にこう解説した。
「あれは廃藩置県をやろうということだ。そうすれば戦争になるかもしれないから、ああいったのだ。薩摩と長州が主になっているから、それをほのめかしたそうだ」
つまり、朝廷と政府の権限については、国内がもっと安定してから話すべきことで、そのためには、明治政府は廃藩置県を断行しなければならない。しかし、旧藩主たちが黙ってはいないだろう。そのため、明治政府はすぐに戦争の準備をしてから、廃藩置県を行うべきだというのが、西郷の考えだったのだ。あまりにもわかりにくく、これには渋沢も「論理の飛躍だ」とあきれながらも、「西郷隆盛とはこんな調子だった」と振り返っている。
西郷のいうとおり、明治政府は廃藩置県を断行。戦争にはならなかったものの、衝突を覚悟して事にあたり、改革に成功している。
幕末志士のなかでも、大久保と西郷は、ほかの者とは見えている範囲が違ったようだ。
https://toyokeizai.net/articles/-/421906
維新の頃の人々の中で、知らざるを知らずとして毫も偽り飾る所のなかつた英傑は誰であらうか、と申せば、矢張、西郷隆盛公である。西郷公は決して偽り飾るといふ事の無い、知らざるを知らずとして通した方であるが、その為又、思慮の到らぬ人々からは、往々誤解せられたり、真意が果して何れの辺にあるか諒解せられなかつたりしたものである。これは一に西郷公と仰せられる方が至つて寡言のお仁で、結論ばかりを談られ、結論に達せられるまでの思想上の径路などに就き余り多く口を開かれなかつた為であらうかとも思ふ。
まづ西郷さんの容貌から申上げると、恰幅の良い肥つた方で、平生は何処まで愛嬌があるかと思はれたほど優しい、至つて人好きのする柔和なお顔立であつたが、一たび意を決せられた時のお顔は又、丁度それの反対で、恰も獅子の如く、何処まで威厳があるか測り知られぬほどのものであつた。恩威並び備はるとは、西郷公の如き方を謂つたものであらうと思ふ。
『実験論語処世談より』
| 勝海舟の西郷隆盛評
西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。おれだって事に処して、多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠は、おれをして相欺くことに忍びざらしめた。
この時に際して、小籌浅略(しょうちゅうせんりゃく)を事とするのはかえってこの人のために、腹を見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しも、あの通り立談の間に済んだのさ。
『氷川清話より』
江戸城受渡しの時、官軍の方からは、予想通り西郷が来るというものだから、おれは安心して寝ていたよ。そうすると皆の者は、この国事多難の際に、勝の気楽には困るといって、呟いていた様子だったが、なに相手が西郷だから、無茶な事をする気遣いはないと思って、談判の時にも、おれは欲は言わなかった。ただ幕臣が飢えるのも気の毒だから、それだけは、頼むぜといったぱかりだった。
おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかった事だ。この東京が何事もなく、百万の市民が殺されもせずに済んだのは実に西郷の力で、その後を引き受けて、この通り繁昌する基を開いたのは、実に大久保の功だ。それゆえにこの二人のことをわれわれは決して忘れてはならない。
『氷川清話より』
西郷というと、きつそうな顔をしていたように書かぬと人が信じないから、ああ書くがね、ごく優しい顔だったよ。アハハなどと笑ってね、おとなしい人だったよ。
『氷川清話より』
| 内村鑑三の西郷隆盛評
「天の道をおこなう者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めても奢らない」
「天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ」
「法は宇宙のものであり自然である。ゆえに天を畏れ、これに仕えることをもって目的とする者のみが法を実行することができる。天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない(我を愛する心をもって人を愛すべし)」
西郷はここに引いた言葉や、それに近い言葉をたくさん語っています。私は、西郷がこのすべてを、「天」から直接に聞いたものであると信じます。
『代表的日本人より』
崇拝できる人物は世界で西郷ただ一人と仰ぐ、およそ五千人もの若者たちが、おそらく西郷に知らされることもなければ、その意志にもかなり反して、公然と政府に反乱を起こしたのであります。
反乱者たちの企ての成否は、西郷がその運動に自分の名を貸し与え影響を与えるか否かにかかっていました。強さにかけては人後に落ちない西郷も、困った人々の哀願の前には無力にひとしい存在でありました。
二〇年前、客人を歓迎するしるしとして自分の命の提供までも約束したことがありました。今ふたたび西郷は自分を敬愛する生徒たちのために、友好のしるしとして、自己の生命、自己の名誉、自己の一切を犠牲にするに至ったのかも知れません。西郷をもっともよく知る人たちは、今日そのように考えます。
『代表的日本人より』
西郷ほど生活上の欲望のなかった人は、他にいないように思われます。日本の陸軍大将、近衛都督、閣僚のなかでの最有力者でありながら、西郷の外見は、ごく普通の兵士と変わりませんでした。西郷の月収が数百円であったころ、必要とする分は一五円で足り、残りは困っている友人ならだれにでも与えられました。
東京の番町の住居はみすぼらしい建物で、一カ月の家賃は三円であったのです。その普段着は摩がすりで、幅広の木綿帯、足には大きな下駄を履くだけでした。この身なりのままで西郷は、宮中の晩会であれ、どこへでも常に現れました。
食べ物は、自分の前に出されたものなら何でも食べました。あるとき、一人の客が西郷の家を訪ねると、西郷が数人の兵士や従者たちと、大きな手桶をかこんで、容器のなかに冷やしてあるそばを食べているところでありました。自分も純真な大きな子供である西郷は、若者たちと食べることが、お気に入りの宴会であったのです。
『代表的日本人より』
西郷は口論を嫌ったので、できるだけ、それを避けていました。あるとき、宮中の宴会に招かれ、いつもの平服で現れました。退出しようとしましたが、入り口で脱いだ下駄が見つかりませんでした。そのことで、だれにも迷惑をかけたくなかったので、はだしのまま、しかも小雨のなかを歩きだしました。
城門にさしかかると、門衛に呼び止められ、身分を尋ねられました。普段着のまま現れたので怪しい人物とされたのでした。
「西郷大将」と答えました。
しかし門衛は、その言葉を信用せず門の通過を許しません。そのため西郷は、雨の中をその場に立ち尽くしたまま、だれか自分のことを門衛に証明してくれる者が出現するのを待っていました。やがて岩倉大臣をのせた馬車が近づいて来ました。ようやくはだしの男が大将であると判明、その場所に乗って去ることができました。
『代表的日本人より』