瀬島龍三氏が語る越後正一氏との思い出|全国滋賀県人会連合会

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私は元々軍人であり、終戦後、11年間シベリアで抑留を受けて、戦時日本の大本営参謀であったことにより、向こうの秘密軍法会議で重労働25年を科されました。昭和31年、日本とソビエトの間で国交の回復が行われて、祖国の土を再び踏むことができたわけです。昭和31年に帰り、浦島太郎でした。別にこれというところもなくて、それから約2年間、失業者であったわけです。やむを得なく失業しました。ところが、縁がありまして、昭和33年に、伊藤忠商事に嘱託として入社したのです。

その時は、伊藤忠商事という会社の名前を知らなかったんです。私は参謀本部の勤務で、民間とはほとんど関係がなかったので、まったくこれは縁だと思います。昭和33年に嘱託として伊藤忠に入った時に、東京支店長からもらいました辞令には「嘱託として採用する。四等社員待遇」と書いてありました。入社した頃の新入社員が5等社員なんです。3等社員というのが、だいたい係長クラスです。2等社員というのは課長クラスです。1等社員というのは、部長、支店長、次長クラスです。そういうふうに、当時の伊藤忠は5等から1等までとなっていました。で、私は4等社員待遇で伊藤忠に入ったのです。特別経済界で偉くなろうとかそういうんじゃなくて、親子4人、生活できなかったですから。そして娘二人がいました。それを伊藤忠が拾ってくれた、というふうに言って間違いないと思います。しかも、会社に呼び出されて、いわゆる面接試験を受けて、口頭試問とか、そういうのなしに入れてくれたのですから、これはまったく縁ですよ。

そういうことで、昭和33年に、私は伊藤忠にお世話になったのですが、越後さんには、東京本社のエレベーターの中で、専務だった時にお会いした程度でした。「あれが伊藤忠社内で有名な越後さんだ」と、そういう程度でした。それで、35年に、機械第三部という部の部長をしておりました。しかし、商売のことは全然わかりません。ですから、課長に「責任は僕が取るから、思うようにやってくれ」というやり方しかできなかったですよ。昭和36年の9月末ごろ、突然、業務部長の発令がありました。商社に部長というのは100人ぐらいいますけれども、業務部長というのは社長に直属する部長なんです。つまり、会社全体の経営とか、社内の調整とか、そういうことをやっていく部長です。これは伊藤忠だけじゃなくて、三井物産でも三菱商事でも、みんなそうであります。それが36年9月下旬に発令になりましたが、私はとても商売はわからないし、ましてそういう重い役割をやることはできませんから、辞退を申し上げたわけです。10月に入ってからの人事です。社長室に専務の伊藤英吉さん、藤田さんとか、弟さんの越後正之さん、貝石真三さんもおりました。社長室に、みなさん、集まっておられて、その席で辞退を申し上げました。そうしたら、ほかの専務の人達が、「瀬島君、あんたは戦争中に何百万の軍隊を動かしたんじゃないか。伊藤忠の7千人ぐらいなんだ。思うようにやれ」と、こういうふうに核心に触れられたんですよ。越後社長と話したのはその時が初めてで、その時、越後さんはこう言われました。「昨日の常務会で、すでに決定した。なぜ、君を業務部長にしたか、自分からひとつ言おう。伊藤忠は安政元年に大阪でスタートしてから100年以上たっている。しかし、会社全体が近代的な会社になってない。これから、世界の経済、日本の経済も、非常に大きな変化をする時期だ。まず、会社を基本的に近代化せないかん。会社の組織とか、いろんなことを近代化せないかん」過去のいきさつは関係ないでしょう。過去のしがらみがないでよね、ぼくは。「思いきってそういう改革をする。近代化のための改革をする。それで君を業務部長にした。だから、さっきから各専務が言うように、思いきってやれ」人間っておもしろいものでして、それが36年でしたけれども、それから20年たって、昭和56年に、私は土光さんを補佐して国の行政改革やったのですが、36年のこの日、伊藤忠の行政改革をやったのです。それで、僕は、その時、「社命ですから、1年間、やらしてもらいます」と言いました。ただ、社内の実情もよく知らんし、まして、商売の経験も知識もありません。社内には、繊維部門、機械部門、金属部門、それから物産部門と、部門としては4つありました。だいたい専務クラスがひとつの部門を受け持っていました。「各部門から有能なスタッフを出してくれ。そうしないと、会社がどこへ行くかわからん」そういうことをその席でお願いしました。すぐ、社長、部長、専務は、「やろうじゃないか」ということでした。それが昭和36年の9月下旬のことでした。越後さんは社長を昭和35年から14年やっています。そのうち約13年間、私は直接社長に属して、社長越後さんを補佐したという関係になるわけです。私は軍人の時もいろいろの方に仕えました。連合艦隊の参謀として、山本五十六大将。参謀本部では、杉山大将に仕えました。私の人生でお仕えした方々のなかでも、越後さんは、13年間、側で補佐をし、非常に縁が深く、また非常に尊敬しております。今日まで大変懐かしく心に残っておる方です。

二番目は、越後さんのお人柄ということですが、一言で表現しますと、血があり涙がある日本男子だと思います。まず、非常に国を愛する、また、ふるさとを愛する人であったと思いますね。いちいち例を挙げませんけれど。それから、意志の強い、ちょっとやそっとで困難に負けない、困難にぶつかったら、むしろ勇気を出して乗り切っていった、そういうタイプの人。繊維商社であった伊藤忠を、国際的、世界的な総合商社にまでもっていかれたのは、確かに越後さんの最大の功績ですけれども、それは並大抵のことではないですよね。それは、越後さんの先見性と意志の強さだということを思います。それから、それだけの強さを持っておられるのに、大変人情の厚い人だったんです。具体的な例を申し上げますと、私は人事を担当していたのですが、定年が近くなった人のことを発令する前に、決済を受ける為に、越後さんに話しに行きますと、越後さんは「もう娘が片づいておるか」「息子が片づいておるか」、あるいは、「会社を辞めて進む道を持っておるか」そういうことを必ず聞きましたよ。もし、その時に、今から息子や娘が学費がかかるといいますと、2年ぐらい定年退職を延ばしてやれないだろうか。と大変細かい温かいおもいやりのある方でした。あるいはまた、昭和48年ぐらいかな、安保問題でいろんな大学が荒れた時に東大の安田講堂で機動隊と全学連が火炎瓶の投げ合いをして、機動隊もずいぶん傷ついていました。それを、朝、出勤前に見に行ったことがあるんです。そして、会社に来て、見てきた状況を「僕の目の前で機動隊が傷つきました」と越後さんに話したんです。そしたら、越後さんは、「会社が会社としての仕事をやっていけるのは、やっぱり我が国の国内の治安が維持されておるお陰なんで、それがなかったら会社は安定し存在していけないんだ。機動隊、警察官が、これは治安のための犠牲になっておる。だから、警視総監の所に、見舞いを持ってけ」と言われました。僕ももちろんそう考えました。当時の秦野警視総監は「民間からこのようなお見舞いをいただいて本当にありがたい。しかし、総監自身が受け取るわけにはいきませんから」と言って、共済組合へ持って行ったということがありました。後日、警視総監は越後さんと僕を食事に招待してくれました。そういう涙がある人だったと僕は一例を申し上げています。要約すると、血があり涙ある日本男子だと思いますよ。

晩年の越後さんは、昭和49年に社長を退かれてからは、「社長の在任14年間、将来発展をする会社の基盤ができ上がった。自分としてやるべきことはやった」という、安堵感がありましたね。ところが、ご長男と次男とあいついでお亡くしになり、超越したというような気持ちになっておられたように思います。本願寺の総代を受けられたり、裏千家の重鎮になられたのはそんなお気持ちの現れであったと思います。その頃、お会いしても、また時々電話をいろいろかけてこられても、腹ののみ込めたような、明鏡止水の気持ちでおられるなと、晩年の越後さんを私はそういうように考えていました。

それから、だれにも経営者としての道を諭された。昭和35年、小菅さんの後を継いで越後さんが社長になられた時、伊藤忠というものは、繊維会社ではありませんけれども、繊維7、繊維外3ぐらい、7対3ぐらいです。昭和59年5月31日の役員会の席で、越後さんは、社長退任の挨拶をされましたが、社長在任の14年間の結果、伊藤忠の売上金は、昭和35年、社長になられた時に比べて110倍になってます。利益は、14年間で、210倍。積み立て、引き当て、会社の厚み、約30倍。それから、さっき申し上げた繊維と繊維外が、全売上に対し、繊維30、非繊維70となってます。これは私が在任の時、調べた数字です。14年間にどう変わったかということで、これは間違いないです。昭和30年代後半から40年代、越後さんの在任の14年間というのは、日本は重化学工業化時代ですね。今のトヨタなど、みんな出てきたのは、この時期ですね。日本産業全体が重化学工業化した時代ですし、国際化した時代です。そういう大きな流れの中で、伊藤忠は大きくなったんです。それは、完全に越後さんの先見性と、意志力でそういうふうになったと僕は思います。その間に、伊藤忠は世界的な総合商社になったのです。運が良かったとか、そういう意味ではなくて、日本および世界の流れを先見して、流れにつれて会社の経営を進められたことが私にはわかります。その間、いろいろの困難にぶつかったけれども、決してひるまず、初心を遂行されました。例えば、繊維主体の商社を、繊維外の機械や金属、化学品、石油、こういう方面に会社の構造を持っていくという人がなかったら、非繊維は広がりませんから。会社ってものは、毎日毎日食べていかなきゃならない。毎年毎年決算していかなきゃならない。そうすると、ある会社は利益をぶんどらなきゃ潰れちゃうのです。そういう利益は繊維部門の利益によって作り上げ、育成していったということです。もともと越後さんは繊維出身の人ですから、繊維を足場にして総合商社に持っていったわけです。ところが現実問題としては、繊維部門からいい人をどんどん抜くわけですから、繊維部門の担当者にとっては堪らないんですよ。それが可能だった最大の要因は、繊維部門を担当した藤田さん、当時の副社長ですけれども、越後・藤田という、この二人が非常に呼吸があっとったことだと僕は思います。藤田さんと言う人は宝塚に静かに住んでおられるということですが、僕は、非常に立派な人だなぁ、と今でも思います。しかし、藤田さんがいくら立派でも、社長との関係がどうもうまくいってなかったら、どうしようもないでしょう。越後さんはなかなか強いですからね。「繊維は繊維で伸ばすんだ。しかし、会社全体を伸ばすんだ」と、こういうことを言われていました。それを、会社全体を考えて、藤田さんが非常に協力されて、二人の間の関係が非常に良かったことが、越後さんにとって非常に幸いであったと思います。藤田さんは、会議の席上でなくて、オフとかなんとか、時々見えた時に、「瀬島さん、伊藤忠の将来は、繊維主体の商社ではなく、世界総合商社。しかも、世界レベルの総合商社でなきゃ、会社の将来はない。あんたも思いきってやってみろ」と言うんです。これが、社長と藤田さんが対立していたらできませんよ。経営者としての越後さんは、結論的に申し上げますとね、先見の明を持って、意志の強い、しかも、リーダーシップを発揮した経営者だと思います。一言で言えば、そういうことです。先見性と意志力とリーダーシップがあったと思います。

昭和36年秋から業務部長になりましてからも、僕はゴルフをやらなかったんです。この狭い国土にゴルフ場を造るのは、ゴルフをやるのは、国賊だっていうぐらいの気持ちでいました。だから、ゴルフやらなかったんです。ところが、昭和40年頃だったですか、なんか、会社で、いろいろむつかしい問題が出てきたんです。40年に金融引き締めになった時に、伊藤忠もその窮地に入って、ウィークデーに社長の越後さんとそれから専務全員がゴルフに行って、それで、ゴルフ場から専務の秘書が代わる代わるに日本橋に電話して、いろいろ司令が出るわけですよ。ところが、伊藤忠は、ウィークデーゴルフはやらないこと、客筋との関係でどうしてもウィークデーにゴルフをやらなきゃならない時は許可を受けなきゃいけない、そういうシステムになっていました。それは越後さんが作ったシステムなんです。いろいろむずかしい問題があるのに、社長が専務を皆連れて、ゴルフ場から指令が出るでしょ。僕はけしからんと思った。そのうち、越後さんが電話をかけてきた。ゴルフ場の休憩時間にね。僕は電話に出て、開き直った。「社長、今日は何曜日ですか。ウィークデーゴルフはやらないということは、あなたがお決めになったんですよ。近頃では、こういういろいろな問題が起きている。社長、専務全員がね、ゴルフに行く。私は、承服できない。今からすぐ、社長、専務全部、会社に帰って下さい。」と言った。けしからんと思って、受話器を投げ捨てたような気がしたですよ。そこらにいた秘書連中がびっくりして真っ青になってました。で、そのままうちに帰って、翌日、会社で辞表を書いた。そしたら、一番最初に伊藤専務がやって来て、「おこらんでくれ。あんたの言うことは正しいんだ」と僕を慰めるように言って、それから、越後社長の弟の越後正之さんも「まあまあ」って言う。そのうちに、社長室から呼び出しが来た。「ここで、ことによったら、辞表を出す」と。そしたら、社長室の入り口のドアが開けてあって、ふっと入ったら、越後さんなゴルフのパター1本持って、にこにこして、僕の来るのを待ってた。そうして、「瀬島君、昨日は悪かった。君の言うとおりだ」僕は辞表まで持っていたが、けんかのしようがない。けんかにならないんだなあ。そういう時の越後さんの顔っていうのは、童顔ですよ。怒る時はものすごいきつい顔になりますが、そういう時には非常に子供のあれですよ、越後さんは。で、「瀬島君、頼むよ。ゴルフやってくれ」と言って、パター1本くださいました。事と次第によっては、伊藤忠を辞める。ま、僕が辞表を書いたっていうことは、良い悪いは別として、これはそういう自分の気持ちですからね。それでも、僕は、国賊になるのはいやだからと思って、ゴルフやらなかった。1年ぐらいやらなかった。そしたら、僕の部下に向かって、越後さんから秘密命令が出てる。「上から言うと、意地を張ってやらんだろう」というようなことで、下から言われますとね、やっぱり、その、乗っちゃうんですよね。初めからうちにいる鳥部君という部下に連れていかれて、初めてゴルフボールを打たせてもらいました。自分が悪かったと思ったら、自分が間違っとったと思ったら、正直になる。そこがまたあの方の人間的なね…。

もうしばらく生きとってほしかったなあ、と。僕も年取ってきましたし、やっぱり個人的には、なんていうか、兄貴のような感じでいましたからね。例えば、政府の行政改革の仕事に取り組んでおる。大変なんですよね。すると、越後さんが、よく電話をかけてきまして、「瀬島君、頑張ってや」大阪弁で、それは、大変に支えになったです。もうしばらく生きとってほしかったなあ、と。