なぜ「人は人に質問ができないのか?」成果を出す人ほど、「人に聞いて素直に実践している」事実

ビジネスネタ

問する勇気が、成功への第一歩となる理由を探るこの記事では、なぜ多くの人が質問を躊躇し、その沈黙が成長の機会を逃す原因となるのかを深堀りします。質問をしないことの背後にある心理的障壁を解き明かし、孫正義のようなビジネスリーダーが如何にして質問の力を利用して障壁を乗り越え、成功を手繰り寄せたかのエピソードを通じて、質問の重要性を浮き彫りにします。

| 質問をしに来ない

できなければ質問をしに来ればいいものかと思いますが、できない人ほど質問をしに来ない傾向があります。例えば、新人や部下が上司に聞きに来ない、聞けばすぐに解決することでも、相談できずに行き詰まる、なんていう例はどの会社にもあるものです。では、これらの人は誰にも相談できていないのかというと、実はそんなこともありません。新人同士、部下同士、できない人同士で聞き合っていて、上司や「できる人」には聞いていないことが多いのです。それではなぜ、できない人はできる人に質問をしに来ないのでしょうか?

| 理由その1~引け目~

できない人が質問をしに来なくなる理由については、経済学者ジョージ・アカロフの著書『アニマルスピリット―人間の心理がマクロ経済を動かす』で紹介されています

著書の中では、技能の低い役人が技能の高い役人に相談することはほとんどなかったという事実が紹介されています。低技能の役人は同じく低技能の仲間と相談して助言をやりとりをしたのです。一方、高技能の役人は 、他の高技能の役人とお互いに助言しあったと言います。では、なぜそうなったのか ?低技能の役人たちが取引に使える材料が限られていたからであり、低技能の役人たちは、高技能の役人たちに助言をしてもらっても返せるものがないため、お礼を言う度に気疲れしてしまっていたからです。だからこそ、最初は技能の高い役人に助言を求めても 、それが繰り返されることはないのです。そういった意味において、同程度の仲間となら 、同程度の価値のやりとりと共に交換は繰り返し続くというわけです。つまり、できない人ほど、アンバランスな取引に引け目を感じて聞くことをしなくなるということです。

| 理由その2~現実逃避~

できる人とできない人に圧倒的な能力差があるかというと、決してそんなことはありません。人に聞きに行くという行為は、自分の技能の低さを自覚することであり、場合によっては批判や指摘を受ける可能性も含んでいます。そういった意味で、人に聞きに行くという行為には、誰しもが不安や緊張などの不快感を感じるものです。だからこそ、できない人ほど、できる人に聞きに行くことをしなくなり、主観的な世界に合わせて真実を曲げることで(現実逃避)どうにか折り合いをつけてしまうのです。

| できる人ほど、人に聞く理由とは?

できる人ほど質問をしに行く理由は明確です。自分の力だけで進むより、できる人からのアドバイスを改善材料として取り入れたほうが、圧倒的に近道であることを知っているからです。できる人ほど、聞いたことを素直に実行し、改善を繰り返して行くためできない人との差がどんどん開いていくことになるのです。これは言うまでもないことかもしれませんが、「自分ができないということを素直に認める」ことが大切です。その上で、「誰だって最初はできない。アンバランスな取引で当然だ」と腹をくくることです。断られようが煙たがられようが、図々しくこれだと思う人に聞きにいくことが、できる人になる唯一の道なのです。

| 孫正義のエピソード

最後に、ソフトバンクの創業者で有名な孫正義の幼少期のエピソードをご紹介します。

孫少年の同じクラスには “一体、どげな勉強しとると?” と、彼が尋ねるほど成績がいつも断トツの秀才君がいました。

中学3年生のとき、翌春の高校受験に備えて本格的な勉強を始めたその夏、「おばさん、たってのお願いがあると。今から母ば連れて行くけん聞いてくれんね」と、彼は突然、その「秀才君」の母親に電話をかけるのです。

そしてそのあと、自分の母親を伴って訪れた少年は、一方的に切り出しました。「前の学校でオール5やった。ばってん、ここ博多の中学に来たらオール2になってしもうたもんね。そんで、成績が1番の「秀才君」に負けんよう一生懸命勉強ばしたと。けど追いつけんかった。彼に“どげな勉強しとると?” と訊いたら“通知表を持って森田塾に行ったらよか”と、そげんこと言いんしゃった。そんで通知表ば持って塾へ行ったと。ばってん入塾ば許してもらえんかった。そんで、おばさんの力で口添えばしてもらえんかと、お願いに来たと」と。

この森田塾とは、地元の修猷館をはじめ、鹿児島ラ・サールや久留米大学附設高校といった名だたる進学校を目指す生徒を対象にした塾でした。当時この親友のおばさんが、塾の保護者会の委員をやっていて、また森田塾館長とも懇意にしていたことを少年は知っていたことから、直接頼みに行ったのです。

この少年の意気込みに圧倒されたおばさんは、今度は少年の母親と3人で、森田館長宅を訪れることになります。結果、”少年の執念は凄まじかった”と言わせるまでに館長をも圧倒し、ついに入塾の許可を取り付けてしまったのです。

その少年が16歳の高校生になったばかりのときです。

少年は、日本マクドナルドの創設者・藤田田氏の著書「ユダヤの商法」にとても感動し、1973年の夏、直接藤田氏(当時47歳)に何度も電話します。

以下は、それからずっと後にプレジデント誌に載った本人の言葉です。

『どうしても藤田さんに会いたいと思ったので、久留米から藤田さんの秘書に、毎日、電話したんですよ。文字どおり毎日、でも断られました。当時、市外電話の料金はものすごく高かったのです。だから電話をかけるより、直接、会いに行ってやろうと、アポイントも取らずに飛行機に乗ったんです。羽田空港に着いて、そこから藤田さんの秘書に連絡し、次のように伝えました。「私は藤田さんの本、「ユダヤの商法」を読んで感激しました。ぜひ、一度、お目にかかりたいのです。しかし、藤田さんがお忙しいことは重々、承知しています。顔を見るだけでいいんです。3分間、社長室の中へ入れてもらえればそれでいい。私はそばに立って、藤田さんの顔を眺めています。目も合わさない、話もしないということなら藤田さんのお邪魔にはならないんじゃないでしょうか」と。

そして秘書の方に言いました。「私が話した通りのメモを作って、それを藤田さんに渡してくれませんか。メモを見て、それでも藤田さんが“会う時間はない”と言うのなら、私は帰ります。ただし、秘書のあなたが判断しないでください」と。それで先ほど言った内容をメモしてもらい、電話口で読み上げてもらって、「てにをは」の間違いを直してもらったのです。そうしたら、よし、15分だけ会おうということになったんです。

そしてその会話の中で、 “今度アメリカに留学しますが、アメリカでは何を学べばいいでしょうかと訊いたところ、藤田社長は、これからはコンピュータビジネスの時代だ。オレがおまえの年齢だったら、コンピュータをやるとおっしゃった 』