辛く苦しいときこそ思い出して欲しい『岡本太郎』の言葉たち

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自分の生き方に自信を持てず、辛く苦しいときこそ、触れてみて欲しい”岡本太郎”

彼の言葉は、強烈な強さと優しさで、読む人に“生きる力”“夢をかなえる勇気”を与えてくれます。

それは、アーティストだけの特権ではないはずです。

岡本太郎とは?

日本を代表する芸術家として有名な岡本太郎。

岡本太郎は、漫画家の父・一平と小説家の母・かの子との間に神奈川県川崎市に生まれました。

東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進学した太郎ですが、「芸術は教わるものではない」と言い放って大学を退学し、パリに遊学します。

その後、太平洋戦争へ出征し絶望的な軍隊での経験を経て日本に戻ると、日本の芸術界に挑戦状をたたきつけました。

そして、彼の生涯のパートナーであった養女の岡本敏子によって、岡本太郎の生き方や言葉が現代に蘇えることになったのです。

岡本太郎の言葉

よく財産を知識を蓄えることを人生の目的としている人もいるようだけど、財産も知識も蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまうんだ。

人生は積み重ねが大切だとよく言われているけど、人生は積み重ねではない、積み減らしていくのが本当なんだ。

人の目が気になるという人がいる。

僕は格好にとらわれそうになったら、そんな自分を叩き潰してやるんだ。

そうすれば逆に自分が猛烈にひらけてくる。

過去を悔んだり、未来を恐れたりする人が多い

いま現在、この瞬間瞬間に新しく生まれ変わって運命をひらくんだ。

今までの自分なんて蹴とばしてやる、そのくらいがちょうどいい

安心、安全と思われる道を選んでいないか。

僕は「危険な道を取る」命を投げ出す気持ちで、そう自らに誓ったんだ

危険な道を選んで、結果が思うようにいかなくたっていい。

結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えばこれほどさわやかなことはない

日本という国では、オリジナリテイを持つことは許されない。

積極的に生きようと思っても、まわり中から足を引っ張られるよね。

それは、日本の道徳観から来ている。
徳川幕府という強固は封建制では、身分が明確に分かれていて、そこから出るわけにはいかない。

明治に入って、立身出世した人も出たけれど、一般の気持ちとしては、それは夢物語であって、実際には自分の分限というものを考えてしまう

それは、そのほうが無難に生活ができたからだ。この国では長いものには巻かれろが常識なんだ。

あえて独自な表現や不協和音な主張をして村の安寧や秩序を乱すやつは村八分にされ、滅ぼされてしまうんだよ。
だからこそ、いままでは謙虚であることが世渡りの第一歩みたいなものと考えられてきた

実社会に出ると、会社とか勤め先では人間関係さえ適切に処理すれば事は足りてしまうからだ。

青年は己の夢にすべてのエネルギーを賭けるべきなんだ

年寄りでも青年のような活力を持った人もいれば、十代でもどうしようもない年寄りがいるものだ。

多くの人が体当たりする前から、うまくいかないんじゃないかなんて、自分で決めて諦めてしまう。

ぼくは口が裂けてもあきらめろなどとは言わない

そもそも人間にとっての成功とは何だろう?

結局は、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか?

異端者扱いされ、村八分を食う、絶望的な闘いは厳しい。

もちろん怖い、だが、その時に決意するんだ。

よし駄目になってやろう

そうすると、もりもりっと力が湧いてくる。

食えなければ食えなくても、と覚悟すればいいんだ

それが第一歩だ、その方が面白い。

もし世界が変えられないなら、変えることのできるものがある。

それは自分自身である。

今日もし多くの者が誠実に、勇気をもって、そして平気で、己を変えて行ったならば、私はこの絶望的と思われている世界の状況、非人間的なシステムも変え得ると思うのだ

でなければ何で人類が生きてきた、そしてこれから生きて行く意味があるだろうか。

何かこれと思ったら、他人の眼を気にしないことだ。

また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、萎縮せずありのままに生きていけばいい。

つまり、だめならばだめ人間でいいと思って、だめなりに自由に、制約を受けないで生きていくんだよ

まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかないんだ

心の動く方向にまっすぐに行くんだよ、失敗してもいいから。

「いまはまだダメだけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。

いずれ、なんていうやつに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。

生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することなんだ

人間が一番つらい思いをしているのは現在なんだ。

やらなければならない、ベストを尽くさなければならないのは、現在この瞬間にある

弱い人間とか未熟な人間のほうが、はるかにふくれあがる可能性を持っているんだよ。熟したものは逆に無抵抗なものなんだ

友達に好かれようとする人が多い。

なぜ友達に愉快なやつだと思われる必要があるのだろうか?
もっと厳しく自分を突き放してみたらどうだろう?

友達に好かれようなどと思わず、友達から独立してもいいと腹を決めて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になれるんだよ。

自分をごまかせない人間は当然悩む、自己嫌悪を起こす。

そんな時自己嫌悪を乗り越えて、自分を救う方法が二つあるんだ。

一つは、まったく自分を無の存在と考えること。

二つ目は、徹底的にそんな自分自身を対決の相手として、猛烈に闘ってやろうと決めること。

どっちでもいい、ただし、中途半端はだめだ。

徹底的に貫く、そうするとスッと嫌悪感が抜けてしまう。

自己嫌悪なんて、いい加減のところで自分を甘やかしていないで、もっと徹底的に自分と闘ってみるんだよ

1年ではなく1生の計は、365日毎日毎日、自分の存在にあることを知るべきだな。

人間は瞬間瞬間に生きるんだ、それは瞬間瞬間の決意だ。

決意というのは、なまやさしいもんじゃない自分の人生のすべてを賭けてくだす行動が決意なんだ

ぼくは子供のころから孤独だったな。

子どもの世界も大人の世界も一緒だけど、長いものには巻かれろで、強い者に従って身の安全や保身をはかる。

でも、いつも笑顔で接してばかりいないで、怒るべきときは怒って、喧嘩するのも大切なんだ。

子どもに戻ったような気持ち、純粋な気持ちになって、自分をごまかさないで生きる決意をすればいいんだ。

ただ、これは辛い、よほどの覚悟をしても大変だ。

しかし、一度決意をしたら、絶対に貫き耐えて耐えぬかなければだめなんだよ

財産が欲しいとか、地位が欲しいとか、あるいは名誉なんていうものは、ぼくは少しも欲しくはない。

欲しいのはマグマのように噴出するエネルギーだ

眼の前はいつも、なんにもない。

ただ前に向かって身心をぶつけて挑む、瞬間、瞬間があるだけだ

ぼくは今日、憤るという純粋さを失い、怒るべきときに怒らないことによって、すくみ合い、妥協し、堕落している一般的なずるさと倦怠が腹立たしい。

世の中が怒りを失っていることに、憤りを感じるのだ

人生には、世渡りと、ほんとうに生きぬく道と二つあるはずだ。

人に気に入られたり、お役に立とうという気は少しも持たず、むしろ憎まれ、誤解されることを前提に、孤独に生きたいと思う。

それが逆に世界をひらくのだ。

心の底から平気で、出世なんかしなくていいと思っていれば、遠くの方でちぢこまっている犬のようにはみえないんだ。

絵は好きだったが、ただの絵描きになろうとは思わなかったな。

もっと自由に生きたい。

何か、ほんとうに自分らしく。

ぼくは自分の仕事というか職業を狭く決めてしまうので、どうも面白くなかったんだ。

絵にしろ、彫刻にしろ、文章でもテレビでも、それを売って食うためにやるなんてことは空しいと思うんだ。

だからぼくはあらゆることをやるけれど、職業じゃない、人間として、言いたいことを言う、やりたいことをやる。

収入はそれについてくることもあるし、こないこともある、勝ってにしやがれだよ。

フェアな態度でぶつかり合えば、お互いに親近感を感じるものだよ。

絶対に妥協しないで、人と争うのじゃなくてニッコリ笑っていればいい

そうするといつか相手にキミ自身の純粋さがわかってくる。

そして、相手が自分も彼(彼女)みたいな純粋さをもてればいいなと思いはじめるものなんだ。

誰もが、あえて出る釘になる決意をしなければ、時代はひらかれない。

ぼくの前に出て開会の挨拶をされた坊さんが、「道で仏に逢えば、仏を殺せ」素晴らしいお言葉です、と言われた。

有名な言葉だ。ぼくも知っている。確かに鋭く人間存在の真実、機微をついていると思う。

しかし、ぼくは一種の疑問を感じるのだ。今日の現実の中で、そのような言葉をただ繰り返しただけで、はたして実際の働きを持つだろうか。

とかく、そういう一般をオヤッと思わせるような文句をひねくりまわして、型の上にアグラをかいているから、禅がかつての魅力を失ってしまったのではないか。

で、ぼくは壇上に立つと、それをきっかけにして問いかけた。

「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください」

誰も上げない。

「逢いっこない。逢えるはずはないんです。では、何に逢うと思いますか」

これにも返事がなかった。坊さんたちはシンとして静まっている。そこでぼくは激しい言葉でぶっつけた。

「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら己を殺せ」

会場全体がどよめいた。やがて、ワーッと猛烈な拍手。

これは比喩ではない。人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。

いのちを賭けて運命と対決するのだ。その時、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである

今日の社会では、進歩だとか福祉だとかいって、誰もがその状況に甘えてしまっている。システムの中で、安全に生活することばかり考え、危険に体当たりして生きがいを貫こうとすることは稀である。

自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生きぬかなければならない

今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。

ぼくは臨済禅師のあの言葉も、実は「仏」とはいうが即己であり、すべての運命、宇宙の全責任を背負った彼自身を殺すのだ、と弁証法的に解釈したい。

禅の真髄として、そうでなければならないと思う。

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