大川功とCSKグループの軌跡、伝説的経営者の創業物語

人物ネタ

情報サービス産業の世界で伝説のごとく語り継がれている経営者をご存じでしょうか?1960年代末、我が国におけるコンピューターの黎明期に起業した大川 功氏。総売上額1兆円を超えるCSKグループを築き上げながら、再生に心血を注いでいたセガに850億円という巨額の私財を寄付した人物です。この記事では、稀代の経営者、大川功の創業エピソードを紹介します。

| 予兆

1962年、大川は、大阪市立大学を出て会計事務所を経営していた兄・博の片腕として働いていました。その事務所に、日本IBMの営業マンが「パンチカードシステム」を導入するよう、しきりにセールスに来ていました。62年と言えば、日本でもコンピューターが導入されてはいたものの、まだその本格的な時代ではありませんでした。いわばコンピューターの前身としてデータ処理業務に広く使用されていたのが、IBMが最大の供給業者だったパンチカードシステム(PCS)でした

パンチカードとは、このシステムの基本的なデータ記憶媒体のことで、データ入力はキーパンチと呼ばれる機械を使って人の手で行われます。それにより、分類、計算、作表、印刷等が迅速かつ正確に行われ、大量のデータ処理が一挙に可能になりました。IBMは自社のPCSの販路拡張の戦略の一貫として、計算業務を代行する計算センターの設立を積極的に働きかけていました。日本が高度経済成長期を迎えると、計算センターが受注するデータ処理業務の量は飛躍的に増大していました

大川はとりあえず、兄の代わりにIBMが開くPCSの講習会に参加してみることにしました。後年、彼はその講習会で初めてPCSを見たときの驚きを繰り返し社員に語っていました。「アメリカの企業には、こんなにすごい機械が入っているのか。なるほど、これでは戦争をしても日本が負けるわけだ」と。「データ処理にはじまるコンピューターの利用は、いずれわが国のひとつの大きな産業になるに違いない」。大川はいわば、間近に迫っていたコンピューターの時代の到来の予兆を、このとき感じていたのです。

| 遅いスタート

大川は、そののち、大阪計算代行を経て、日本計算センター取締役大阪支社長として働いたのち、大阪の淀屋橋において43歳で「コンピューターサービス株式会社」を創業します。43歳での船出というのは、経営者としてはかなり遅いスタートでした。大川は、早稲田大学卒業後、肺結核が再発し、同時に盲腸炎にかかり、手術後の傷跡がなかなかふさがらない「腸漏」という状態になってしまっていたのです。戦争中の不健康な生活や栄養不足の影響もあり、かなりの重症で、大企業に就職していた友人たちは、係長あたりに昇進していきましたが、大川はそれを横目で見ているだけの日々でした。

当時、ヤミ市場に出回っていた高価なストレプトマイシンが実によく効いて、大川の肺結核と腸漏は急速に完治へと向かっていきました。健康になってようやく社会復帰が可能になったとき、彼はすでに29歳になっていました。同世代の連中ははるか先へ行き、自分はすっかり出遅れている。いまさら追いつこうとしても追いつけるわけがないと思っていました。そんなときに会計事務所を手伝わないかと声をかけてくれたのが兄・博だったのです。

その後、日本計算センターの取締役で働いたことは先述しましたが、自分で計算センターを設立してその経営にあたろうとはしていません。大型汎用コンピューターはすべてレンタルで、毎月のレンタル料は250万円から300万円しました。計算センターを維持していくためには、そのレンタル料の2.5倍から3倍、750万円程度の売り上げがなければ損益分岐点を突破しない。大川は、必死になってもおそらく5年はかかるだろうと見込み、あまりにも効率が悪すると判断したのです。その後、設立した「コンピューターサービス株式会社」は、コンピューターのソフトウェアのサービス業、コンピューターについてのすべてのサービスを提供するというコンセプトでした。

| 住友生命淀屋橋ビル

大川は起業するにあたって、住友生命淀屋橋ビルにオフィスを構えることにします。大阪の淀屋橋は、いうまでもなく大阪市内の一等地です。しかし、何の実績もない無名のちっぽけな会社に、大住友グループに属するビル会社がオフィスを貸すわけがありません。そもそも「コンピューターサービス」って何なのか?大川の前にたちはだかったのは、高額の敷金と保証金でした。

ビル3階の80坪を借りたいということで交渉していましたが、それにはまず敷金として240万円、さらに保証金として50万円ないしは100万円を支払う必要がありました。大川は生粋の大阪人でした。敷金は半分にまけてもらいながら、保証金のほうは、はじめにその一部を支払うけれども、残りは大川に融資するというカタチで、毎月の家賃に上乗せして払うという案をビル側と交渉成立させてしまったのです。

それにしても、なぜ大川は起業間もないにも関わらず、住友生命淀屋橋ビルにこだわったのでしょうか?後年、彼はその理由について、以下のように語っています。

「あのビルは住友の本社の隣、しかも地下鉄で雨に濡れずに通うことができる。場所を言ったら、誰でもすぐに分かる。そして、ちょっと行ったら三越がある。ショッピングができる。人もお金もそういうところに集まるわけや」

| ビルの明かり

起業間もない頃、大川は部下を引き連れて毎晩あちこちを飲み歩いていました。まだ仕事はほとんどありませんでしたが、帰る時間になっても、あっちのビルにもこっちのビルにも明かりが灯っているんです。それは、それぞれの会社のコンピューター部門だったのです。

大川はそれを見て「おい、あそこ電気ついとるで。あれはきっとコンピューター動かしとんのや」と言い、部下はそれを聞いて「じゃ、明日早速、営業行ってみますわ」といって、翌日その会社にすぐに営業に行くわけです。そうやって、少しずつ仕事を取っていったのです。

大川が設立したコンピューターサービス株式会社は、頼れる親会社もなければコネもない、完全な独立系でした。社長の大川以下、社員たちは、連日、足を棒にして営業に歩き回らなければならなかったのです。さしたる成果もないまま、創業年の68年は暮れました。

| 飛躍の一歩

不安と焦りを抱えながらの創業2年目、コンピューターサービス株式会社は大きな飛躍の一歩を踏み出します。大川は、関西きっての名門企業、松下電器産業に飛び込みで営業をかけ、炊飯器などをつくっている電化センターに日参しては、何とか仕事をもらおうと担当者に熱弁をふるっていました。するとある日、担当者がこう言ってくれたのです。

「大川はん、そないに言うのやったら、いっぺんおたくの社員を連れてきてみい。使うてみてやるわ」

大川は淀屋橋のオフィスに戻ると、社員たち手を取り合って喜び、この好機を会社飛躍の第一歩にしようと誓い合いました。68年に創業50年を迎えた松下電器産業は、家庭電化ブームの波に乗って空前の増収と増益を続けていました。しかし、唯一頭痛の種となっていたのは、急速な事業の拡大に人手が追いつかないことで、各事業部のコンピューター業務部門もまたその例外ではありませんでした。当時は大型汎用コンピュータを扱える専門技術者の数が圧倒的に不足していた時代であり、松下も要因の確保に苦労していたのです。

オフィスにしても顧客にしても、彼はハナから一流を狙っていました。そして、この戦略が見事に功を奏したのです。

| 人員不足

大川のコンピューターサービス株式会社は、まず松下電器のモーター事業部門の仕事を受注し、つづいて同社の中央研究所から依頼を受けたシステム開発にもあたることになりました。この中央研究所からの受注は、大川の対外的な信用を高めるという意味できわめて大きな効果がありました。

コンピューターサービス株式会社は、こうして69年4月頃から、ようやくその実質的な活動に入っていったわけです。松下電器にはIBM製の最新鋭大型汎用コンピューターが導入されてましたが、大川の会社の社員はそれを使わせてもらい、いわば最新の知識と技術を修得させてもらいながら、仕事をするようになったのです。それでいて、なおかつお金もいただけるのだから、こんなにうまい話はありませんでした。

しかし、ここで大きな問題が持ち上がります。松下電器から受注した業務に遺漏なく対応していくためには、人員があまりにも不足していたのです。そこから、大川の会社の社員は、毎日あらゆる電算学校を回って、新人を入社をさせては、その友達を入社させるという形で必死に動き回ることになっていきます。

当初は5、6人に過ぎなかった社員は、あっという間に20人、30人となり、創業から3年目の1970年には一挙に250人まで増加していきます。その後、1972年に320人、1973年に540人、1976年には1100人を超える急成長を遂げました。その後、コンピューターサービス株式会社は「CSK」と社名を変更し、数多くの関連会社と膨大な社員を擁する巨大企業へと成長していったのです。